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●2025年12月号
■ 『バーニー・サンダース自伝』を読む
    瀬戸 宏

■ はじめに

本年11月4日、アメリカ・ニューヨーク市長選挙でゾーラン・マムダニの当選が伝えられた。民主社会主義者(democratic socialist)あるいは社会主義者を公称している人である。マムダニについては、本誌11月号で北村巌氏が紹介している。本年2月のドイツ総選挙では、左翼党が分裂などでの事前の苦戦予想を覆して8.77%の得票率で前回から大幅に議席を増やした。左翼党の躍進については、本号で別の筆者によって解説されている。イギリスでも労働党を左派傾向などを理由に除名された前党首のジェレミー・コービンが昨年7月のイギリス総選挙で無所属で当選し、今年7月に発表した左派新党結成の呼びかけには約1週間で60万人の登録があったと伝えられる。
   
これらの政治勢力はいずれも民主社会主義を標榜している。特にアメリカで民主社会主義躍進の大きなきっかけとなったのが、2016年アメリカ大統領選挙の民主党予備選挙でやはり民主社会主義を公称するバーニー・サンダース(以下、サンダースと略す)の善戦であったことは、比較的よく知られている。ここで取上げる『バーニー・サンダース自伝』(萩原伸次郎監訳、大月書店2016年刊。以下本書と略記)は、約10年前に刊行された本ではあるが、現時点で日本語で読める資料としてサンダースの政治主張と実践を最も詳しく紹介している。サンダースはその後も政治主張を変えておらず後述のようにその主張は2020年代の今日でも通用する。ここで同書の内容を紹介し、その意義を本誌読者と共に考えていきたい。
   
   

■(1)市長になるまで

本書はもとは1997年に刊行され、題名を直訳すると『下院のはぐれ者』(Outsider in the House)であった。2015年にまえがきとジョン・ニコルスの解説を附して『ホワイトハウスのはぐれ者』(Outsider in the White House)に改題して再版された。本書は選挙の節目の時期(初版は最も厳しい選挙だった下院選3選直後、再版は民主党大統領候補予備選挙出馬決定)にサンダースの過去の政治主張と実践を紹介したもので、厳密には時系列順に記述された自伝ではない。特に政治家になる以前の記述は簡略だが、まず他の資料も参照しつつ、サンダーズの経歴を確認しておこう。
   
サンダースは1941年ニューヨーク・ブルックリンのユダヤ系ポーランド移民の家庭に生まれた。父親はペンキのセールスマンで、サンダースの言葉では「中間層の下の方の家庭」(p.56)で育った。「お金がないことが、いつも緊張と悲哀の種になっている家庭」(同)であったという。父親は大恐慌時代を経験していたので高校を卒業すると大学に行くよりも堅実な仕事に就いた方がいいという考えだったが、母親は大学に行くべきだと考えていた。サンダースはブルックリン大学で1年学んだ後、シカゴ大学に再入学して4年間在学し卒業した。両親は基本的にノンポリで、サンダースが政治活動を始めたのは、民主党系青年運動に参加していた兄の影響だったという。
   
サンダースは大学での学業にはあまり興味を持てなかったようで、いい学生ではなかったと回想している。彼が大学に在籍した1960年代前半は、公民権運動や反戦運動で学生運動が盛り上がった時期だった。サンダースは、人種平等会議、学生平和連合、青年社会主義者同盟に参加した。青年社会主義者同盟(Young People's Socialist League)はアメリカ社会党系青年組織で、この頃から民主社会主義に関わりだした。これ以後サンダースは一貫して自己を民主社会主義者あるいは単に社会主義者と呼んでいる。本書には出てこないが、人種差別反対デモ参加で逮捕歴もあるという。またシカゴ大学図書館で長い時間を過ごし、歴史、哲学、社会学、心理学の本を大量に読んだ。読んだ本の中で特に、マルクス、エンゲルス、レーニン、トロツキーの名を挙げている(p.58)。本書の中でマルクスの名が出てくる唯一の箇所である。
   
大学卒業後は、ニューヨークでさまざまな短期の職業に従事しつつ、政治運動に関わり続けたようである。1964年にシカゴ大学時代の友人のつてで、その後サンダースの政治地盤となるヴァーモント州に転居した。ヴァーモント州で1971年にサンダースは自由連合党(Liberty Union Party)という小政党の会合に参加し、連邦上院議員候補者に選ばれてしまった。自由連合党は平和志向のヴァーモント州地域政党で、現在も緑の山の平和正義党(Green Mountain Peace and Justice Party、緑の山はヴァーモント州の象徴)として存続している。サンダースの政治主張と矛盾する政党ではないが、この時まだ存続していたアメリカ社会党との関係などは本書では書かれていない。翌1972年サンダース最初の公職立候補は、共和党、民主党に次いで第3位、しかし得票率は2%に終わった。
   
   

■(2)バーリントン市長時代

サンダースはその後も自由連合党から、1972年ヴァーモント州知事選挙(得票率1%、以下同じ)、1974年上院議員選挙(4%)、1976年ヴァーモント州知事選挙(6%)に“万年候補者”として立候補し続けた。1976年の選挙を最後に、サンダースは第3政党としての自由連合党に限界を感じ、同党から離れる決断をし、ひとまず政治活動から離れた。第3政党の限界とは、主張に賛成でも「第3政党の候補者に投票して票を無駄にしたくはない」(p.62)ということである。その後は学校向け教育映像作成の仕事などに従事した。その期間も、アメリカ社会党創始者で大統領選にも5回出馬したユージン・ヴィクター・デブス紹介の30分ビデオを作成したことを、本書は伝えている。
   
そんなサンダースを、民主党市長が5期目を目指すバーリントン市長選に出馬するよう勧める友人がいた。6%を得た1976年ヴァーモント州知事選の票を調べると、バーリントン市では12%を得ており、特に労働者階級が多い地区では16%を超えていて、勝算があるかもしれないと言うのである。連日の友人たちとの議論を経て、サンダースは再び立候補することを決意した。
   
ヴァーモント州はニューヨーク州に接するアメリカ北東部にあり、人口は2020年現在で64万人余りで全米で2番目に人口が少ない。人口の90%以上が白人系住民である。選出下院議員は1名しかいない。アメリカ独立時の13州に次いで14番目に合衆国に参加した。バーリントン市は人口4万人余りで、ヴァーモント州最大の都市である。
   
立候補に当たって、サンダースは無所属で全国レベルの問題ではなく戸別訪問(アメリカでは合法)などで知りえた市民の不満を吸収して市レベルの問題に訴えの焦点を絞る戦術をとった。その内容は、公営住宅・道路・地下道・公園の補修不備、財産税の累進課税制(低所得者の負担軽減)、環境破壊の湖畔高層マンション建設反対、警官を含む市職員の待遇改善などである。これらの政策訴えの過程で、元ベトナム反戦運動家、低所得層、追い詰められた労働者階級の自宅保有者、環境保護活動家、賃借人、労働組合員、学生、教授など幅広い連合体を創り出すことが出来た。サンダースは「『連帯の政治』を発展させることがいかに大切か、いくら強調しても足りない」(p.82)と述べている。特に巡査組合の支持表明が、当選の可能性を市民に示すうえで大きかった。
   
民主党現職市長の失政もあり、選挙戦の結果は、わずか10票差でサンダースの当選だった。当時としては2大政党に反旗を翻して当選した唯一の市長だった。彼の当選は、当時のアメリカでセンセーションを呼び起こしたようである。サンダースも本書で当選した「あの夜の出来事こそが、その後のすべてを可能にしたのだ」(p.97)と述べている。
   
当選したもののバーリントン市議会は民主党11人、共和党3人、サンダース支持2人だった。最初の1年にサンダースが提案した人事案件はすべて否決されたという。サンダースは「市長が市議会の支持なしでできることを全部やる」という方針で臨んだ。市が入札なしに保険会社に高い金額を払っていることを発見して、入札制に切り替え何万ドルもの費用を節約し、少年野球チーム作りや音楽会開催などをした。1年後の市議選で、サンダース支持派は過半数はとれなかったが、民主、共和両党の提案を阻止できる人数を確保し、ようやく自己の政策や人事を実現できることになった。税金の累進課税制への努力、音楽会など文化活動、消防部門の設備更新、排水処理工場更新など環境保護、低家賃の住宅確保、公園整備、マイナーリーグ野球チームの誘致などである。
   
特記したいのは、市民向け政策だけではなく、反戦平和の立場からの国際交流も同時に実行したことである。1985年サンダースはニカラグア政府の招待でサンディニスタ革命7周年祝典に招かれ、祝典に参加したアメリカ人の中で最も地位の高い人物となった。1987年には旧ソ連レニングラード少年少女合唱団がバーリントンを訪れ、州内の高校生と交流した。1989年にはサンダースがキューバを訪問した。
   
ここで注意したいのは、サンダース市政の進展によって地域の投票率が大きく向上したことである。1979年サンダース当選以前の市長選投票数は7000人だった。81年当選時の投票数は30%増加し9300人になった。83年再選時には1万3000人が投票し、79年のほぼ2倍になった。増加した投票者はほぼサンダースの支持者だった。この傾向は国政選挙にも波及し、1984年の投票率は1980年より23%も高かった。
   
1989年市長を4期8年務めたサンダースは引退した。後任もサンダース政策の継承者だった。後述のようにサンダースがその後も無所属で下院議員、上院議員に連続当選できた大きな理由に、市長という行政責任者を8年間破綻なく乗り切った手腕に対する民衆の信頼があることは、間違いないであろう。
   
   

■(3)国会議員時代

1990年市長職を離れた48歳のサンダースは政治からの引退など人生の幾つかの選択肢を考慮し、州の進歩派と協議したうえで、富裕者増税などを公約に連邦下院議員選挙に立候補した。1980年代以来の状況で格差が拡大し、2大政党から離れることに人々が魅力を感じだした、と本書は説明している。共和党レーガン政権が推進した新自由主義政策の矛盾が背景にあることは確かだろう。加えて当時のヴァーモント州の特殊事情で民主党が有力候補を立てられなかったこともあり、この選挙でサンダースが56%を獲得し当選した。共和党現職候補は40%、民主党候補は3%だった。こうして40年ぶりに無所属で社会主義者の国会議員が誕生した。
   
下院では、銀行・地域開発委員会と政府運営委員会に所属した。住宅創出補助金、地方自治体補助金の管轄委員会だったからである。サンダースは議員生活の初日から最低賃金の引き上げに取り組んだ。本書は何百万人ものアメリカ人が生きていけないほどの低賃金で働き、しかも1973年から約20年で16%も低下していたと指摘している。サンダースは民主党議員らにも働きかけ、1996年についに最低賃金引上げ法案を可決させた。
   
戦争問題については、サンダースは不戦主義者ではなく数は少ないが正当な戦争もあると断った上で、こう語っている。

「私はベトナム戦争への率直な反対者だったし、ニカラグアの人々に対する戦争への反対者だったし、合衆国によるグレナダ侵攻とパナマ侵攻への反対者だった。今、私は合衆国議員として、湾岸戦争に反対する投票をした」(p.192〜193)

医療についても、サンダースは取り組みに努力している。医療は国民的関心事だからである。サンダースは

「合衆国が、先進国で唯一、国民医療保険制度のない国だという事実は、国家的な恥であるべきだ。
  (中略)
1人あたりの医療費は、他のどの国よりもはるかに大きい。この国の医療産業は、病気の回復や予防ではなく、保険会社と高給の専門家に巨額の利益をもたらすことを任務とするようになっている」(p.274)

と述べ、国民医療保険制度を議員として提案し続けている。しかしながら国民医療保険制度は保険会社や既成医療組織の何千万ドルもの金を使ったロビー活動などで、実現していない。サンダースは「アメリカの医療改革は、根本的な政治的変革と、強力な進歩的運動の成長なしには、実現しないだろう」(p.278)と述べている。このほかにもサンダースは中下層国民に焦点を当てた多数の取り組みをおこなっているが、ここでは紙幅の問題もあり紹介できない。関心のある人は本書にあたってほしい。
   
これらの成果の結果としてサンダースは強固な基盤を築き、短期の議員というアメリカマスコミの初当選時の予想を覆して下院議員を8期連続16年務めた。重要な勝因として、サンダースが出馬する選挙では低所得者などの投票率があがり、金権候補を打ち破ったことである。

「私たちは、対立候補をカネで打ち負かしたのではない。票で打ち負かしたのだ。まさに、民主主義における投票の本来の役割どおりに」(p.33)

金銭面で清潔なことも、サンダースの特徴である。政治資金は主に何千何万という人から送られる「5ドルや10ドルの寄付金」(p.35)に依拠している。本書でも落選時や公職からの引退時には、金銭面で苦境に陥ったことが記されている。2007年からは任期6年の上院議員に転じ現在もその職にある。サンダースはアメリカの状況をこう語る。

「私たちは、世界の歴史上、最も富裕な国に住んでいる。だが、その事実にあまり意味はない。その富のほとんど全部が、ほんの一握りの個人によって支配されているからだ。トップ0.1%の人々が、下から90%の人々とほぼ同じだけの富を持っている。
  (中略)
何かが根本的に間違っているのだ」(p.38)

上院での活動や特にサンダースの名を国外にまで広く知らせることになった2016年大統領選民主党予備選挙での活動は本書にはほとんど書かれていないので、これらは別の機会に譲るほかない。
   
   

■(4)サンダースから学ぶもの

本稿では主にサンダースの成功面を紹介したので、読者はサンダースがほとんど順調に支持を獲得していったという印象を持つかもしれない。しかしサンダースは2015年版の前書きでこう語っている。

「これは、簡単で安定した成功物語ではない。つらい骨折りをしたり、正しい方向にちょっと進んだと思ったら押し戻されたり、選挙に負けたり勝ったり、誰も可能だと思っていなかった打開策が実現したり――そんな物語なのだ」(p.33)

本書の中でも民主社会主義とマルクス主義(生産手段の公有化が目標)との関係、資本主義を根本的に覆すことなしにサンダースの政治主張が実現できるのか、旧ソ連などスターリン体制・社会主義の評価、彼と政治組織DSA(アメリカ民主社会主義者)の関係などは、ほとんど語られていない。しかし客観条件の違いはあっても、サンダースの草の根民主主義の重視、中下層民衆の日常生活の要求をくみ上げ政策化していく努力、1名の議会で自己の政策実現のための他党派との粘り強い交渉などは、社会主義実践の1つの具体例として学ぶところが大きいのではないだろうか。
   
   

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