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●2024年12月号
■ 社会主義・マルクス主義と社会民主主義
    瀬戸 宏

10月27日投票の総選挙では与党の自民党・公明党が大敗して過半数を失った。11月5日投票のアメリカ大統領選挙では、トランプが接戦という事前予想とは逆に投票人獲得では民主党のハリスに大差をつけて当選した。同時に行われた上・下院議員選挙でも共和党がどちらも過半数を獲得し、勝利した。いずれも日本・アメリカの資本主義の矛盾の深まりを反映している。それぞれの選挙結果については本号で別の執筆者によって詳しい分析がなされるであろうから、ここでは混迷する資本主義社会の本質を見抜くために理論学習研究のより一層の強化に向けて、私個人の意見を述べてみたい。
   
   

■1. 社会主義と社会民主主義

現在の社会主義協会会員・『社会主義』読者は主に立憲民主党か社会民主党に関係して活動している。このほか新社会党や政党に所属しない会員・読者も存在しているが、この会員・読者も、特に国政選挙闘争では立民党か社民党に依拠して活動すると思われる。社会民主党は明確に社会民主主義を標榜している政党であり、立憲民主党関係者も主に社会民主主義フォーラムを結集軸にしている。今日では、社会主義協会会員・読者は直接関わる政党は異なっても、いずれも基本的に社会民主主義を直接の行動理念としているといってよい。
   
一方で社会主義協会は「科学的社会主義の理論(マルクス、エンゲルス、レーニンなどの思想・理論)の学習に努め、協会の目的を積極的に果たす」(規約第6条)ことを任務としている。社会主義という用語が指す内容はかなり幅広い概念であるが、社会主義協会とその周辺では一般に規約で言う科学的社会主義とほぼ同義として使われてきたと思われる。科学的社会主義という用語は、エンゲルス『空想から科学へ』などから生まれたものであり、マルクス主義と同じ意味内容といってよい。本稿では、以後特に断らない限り社会主義を科学的社会主義の意味で使用し、社会民主主義との関係を考えてみたい。
   
私見では、社会主義協会会員・読者の両者の関係についての考えは、次の4種類に大別されると思われる。

  1. 社会主義と社会民主主義は別概念で敵対的である(社会民主主義は資本主義イデオロギーが労働者階級に入り込んだものである)。
  2. 社会主義と社会民主主義は別概念だが、敵対的ではない。ソ連崩壊以後社会主義への反発が強く直接社会主義を訴えるのが困難な状況下では、社会民主主義に依拠して勢力温存・組織発展を図るべきである。
  3. 社会主義と社会民主主義は別概念だが地続きで、社会民主主義の活動を徹底・拡大していけばある段階で社会主義に発展する。
  4. 社会民主主義は多様な概念であり、マルクス主義(科学的社会主義)を含む社会民主主義もあれば含まない社会民主主義もある。社会主義・マルクス主義と社会民主主義を機械的に対置すべきではない。

1.は1991年のソ連崩壊以前に社会主義協会内で強かった理解である。ソ連崩壊直前に社会主義協会関係者が執筆・刊行した『社会民主主義を考える』(近江谷左馬之助・篠藤光行編、労大新書、1991年)の次の一節は、この観点に従って書かれている。

「社会党が社会民主主義『一本の純粋な政党』になることは、日本では現実問題として、民社党のように企業にゆ着し、資本を代弁する政党になり下がることを意味する」(p.179)。

別の場所(注1)でも書いたことだが、この考えが正しくないことは、今日では明らかであろう。日本社会党はその後1996年に社会民主党となり、“社会民主主義一本の純粋な政党”となったが、社民党は“企業にゆ着し、資本を代弁する政党”となっただろうか。本誌の読者には多くの説明は不要であろう。現在の社会主義協会やその周辺には、この観点に立って社会民主主義を考えている人はもうほぼいないし、かつてこの観点に立っていた人も、その後は考えを変えていると思われる。
   
ただし、この観点は長期にわたって社会主義協会とその周辺で教宣されてきたため、影響は残っていると思われる。社会民主主義という用語に釈然としない思いを抱いている会員・読者はまだ存在しているようである。
   
2.は、現在の社会主義協会の相当数が抱いている観点と思われる。2002年に決定された『社会主義協会提言の補強』(『提言補強』)も、この観点に基づいているのであろう。『提言補強』の次の一節も、そのことを示している。

「社会主義社会の実現をめざす社会主義と、資本主義の漸進的改革をつづけるという社会民主主義との、理論の違いは明確である。しかしどちらも主に労働者という基盤の上に立ち、当面の課題では一致できる。また広範な支持者からも運動の統一を求められ、そうしなければ独占資本の政治勢力には勝てない。統一した運動のなかで、資本主義を越える社会の建設については、真摯な討論をおこなってゆく」
(『提言補強』第4章第3節)。

ここで、『提言補強』でいう社会主義の概念や、社会民主主義を「資本主義の漸進的改革をつづける」と単純にみなす理解が正しいか、という問題が生じる。『提言補強』は2002年段階では社会主義協会の団結を守り運動の前進をめざすうえで肯定的な役割を果たした。しかし社会民主主義と社会主義が異なった概念であるなら、ある一定の段階で社会民主主義勢力と社会主義勢力は分離するのかどうか、という点であいまいさを残していると思われる。ソ連崩壊が生まれる前の出来事となった現在の青年からは、社会主義への嫌悪感が急速に消えている、という指摘もある(本誌11月号拙稿『これからの社会主義入門』書評を参照されたい)。『提言補強』決定から20年以上たった今日でも『提言補強』の理解でいいのかという問いを発することは、社会主義協会の理論研究を発展させる立場からも許容されるべきであろう。
   
3.は、2.の理解で社会主義と社会民主主義の関係を考えている人たちが抱いている考えではないかと思われる。現在の日本では、社会主義と社会民主主義の関係は大きな争点にはなっていない。そうであるなら、当面は社会民主主義を訴え、資本主義の矛盾が極限まで激化し反資本主義の運動が高揚した段階で、資本主義の変革すなわち社会主義を訴えることに切り替えればいい、ということであろう。この考えの難点は、それまで伝統的な社会民主主義観に従って資本主義の枠内の改良を訴えていた人たちが、情勢が到来したからといって、ある日突然社会民主主義ではなく社会主義だと訴えたとしたら広範な民衆から信頼されるか、という問題が生じることであろう。
   
4.は、まだ社会主義協会会員・読者の間でそれほど広まっていないと思われるが、筆者自身はこの考えを持っている。以下、私の考えを述べたい。
   
   

■2. 社会民主主義とマルクス主義

『本誌』読者には意外に思われるかもしれないが、社会民主主義の基本文献とされる「フランクフルト宣言」(1951年)、「オスロー宣言」(1962年)、「ストックホルム宣言」(1989年)を読んでも、コミンテルン系運動(共産主義)に対する強い批判はあっても、マルクスの思想あるいはマルクス主義を否定する文面はどこにもないのである。それどころか、「フランクフルト宣言」ではマルクス主義を宗教社会主義、人道的社会主義と並べて自己の思想と運動の構成部分とみなしている。「フランクフルト宣言」の次の一節はそのことを明瞭に示している。

「民主社会主義は見解の硬直した一様性を要求することはしない国際的な運動である。社会主義者がその信念をマルクス主義的にあるいは他の方法で基礎づけられた社会分析から、また宗教的もしくは人道主義的原理からえてきたとしても、かれらはすべて共通の目標、すなわち、社会的正義、より高い生活、自由、世界平和の社会秩序を追及しているのである」
(前文第11節)。

具体的引用は省略するが、ドイツ社会民主党がマルクス主義と絶縁した指標とされる「ゴーデスベルク綱領」にも、マルクス主義を否定する文面はどこにもない。
   
「フランクフルト宣言」には次の一節があることも、注意すべきであろう。

「社会主義は公的利害が私的利潤の利害に優先するような経済秩序によって、資本主義を克服しようとするものである」
(2. 経済的民主主義、第1節、傍線は引用者)。
   
「民主社会主義は資本主義の経済的な不足や大衆の物質的圧迫のゆえだけでなく、それが大衆の道徳的な感覚を害するがゆえに、資本主義とたたかうのである」
(3. 社会民主主義と文化的進歩、第6節、傍線同)。
日本では民社党の影響で社会民主主主義(social democracy)または民主社会主義(democratic socialism)は資本主義と妥協する思想・運動とみなす見解が強い(民社党綱領には「フランクフルト宣言」などと異なり明確にマルクス主義を否定する文面がある)。だが、社会民主主主義または民主社会主義は、本来は資本主義とたたかい資本主義の克服をめざすことを出発点とする思想・運動なのである。
   
「フランクフルト宣言」から「ストックホルム宣言」までのこれらの文書には、実は社会民主主義という言葉もほとんど出てこない。出てくるのは、民主社会主義または単に社会主義(socialism)である。近年、アメリカで社会主義者を公言するバーニー・サンダースの影響力が拡大していることから、社会民主主義ではなく社会主義の影響力が復活している、という意見が日本の一部にある。この意見はサンダースらの主張を誤解している。サンダースの経歴を調べればすぐわかることだが、サンダースらは正確には民主社会主義者を自任している。民主社会主義は、すでにみたように社会民主主義とほぼ同義である。
   
社会民主主義は多様な概念であり、ヨーロッパなどの社会民主主義政党には、“第三の道”を唱えたブレア時代のイギリス労働党に典型的な資本主義の改良で満足している部分も多く、この部分が今日の社会民主主義の主流であることは確かであろう。このため中北浩爾氏ら政治学者の中には、サンダースやイギリス労働党前党首のジェレミー・コービンら資本主義を強く批判しその克服をめざす勢力を急進左派と呼び、社会民主主義と区別する見解もある。しかし、民主社会主義の来歴をみれば、急進左派と呼ばれる部分は明らかに社会民主主義の一部であり、社会民主主義左派と呼んだ方がいい。そして大きく分ければ、マルクス主義を許容する部分が社会民主主義左派、許容しない部分が社会民主主義右派であろう。
   
伊藤修氏の近著『この社会を変える 社会主義という考え』(労大新書、2023年)にはつぎのような社会民主主義を解説する記述がある。

「社会民主主義にはかっちり固まった規定などがありません。したがって、体制変革を否定して(あるいはその点にふれずに)資本主義体制内での改良だけをめざす、いわば改良主義から、事実上革命を展望していて科学的社会主義に近い左派まで、質的に異なるものを含んだ広い範囲からなっています」(p.93)。

伊藤修氏のこの本は社会主義観を巡って、過去の社会主義観の率直な自己批判や新たな問題提起をおこなっている。同書の内容に私はほとんど賛成で多くの人に読んでいただきたいが、社会民主主義と科学的社会主義の関係には一言しておきたい。社会民主主義の中にマルクス主義を含む部分があることは、すでに確認した。科学的社会主義はマルクス主義と同義であるから、“科学的社会主義に近い左派”ではなく、“科学的社会主義を含む左派”と考えた方が理論的に明確ではないだろうか。
   
かつての日本社会党は社会主義インターに加入するなど、明らかに社会民主主義政党であった。しかし1950年代から1980年代前半ぐらいまでの日本社会党は、毛沢東が「世にも不思議な政党である」と評したように、帝国主義・資本主義に対して強い戦闘性を持っていた。これは社会党の中で社会主義協会などマルクス主義・科学的社会主義の立場に立つ左派が主導権を握っていたからである。この日本社会党の性格を、私は日本型社会民主主義と呼んだことがあるが、国際的にみれば社会民主主義左派に属するのであろう。
   
社会民主主義に関連して、社会民主主義と改良闘争の関係についても述べておきたい。近年の社会主義協会では社会民主主義政策の重要性が強調されている。私の理解では、社会民主主義政策とは、勤労諸階層の今日明日の切実な生活問題の解決をめざす政策で、それ自体はまったく異議がない。しかし日本社会党時代から、社会主義協会は原則の提起だけでなく改良闘争の重要性を一貫して主張してきた筈である。左派が主導して1974年に決定された「国民連合政府綱領と日本社会党の任務」第2部「国民統一の基本政策」の内容は、多少字句を改めれば今日でもほとんどそのまま通用する。なぜ今日改めて社会民主主義政策の重要性が提起されなければならないのか。過去の改良闘争と今日の社会民主主義政策はどこが違っているのか。考えてみるに値する問題ではないだろうか。
   
   

■3. 科学的社会主義の科学性

しかし、今日では科学的社会主義という用語は、マルクスの復権を主張する研究者の間ではあまり評判がよくない。それは、過去(ソ連崩壊以前)に科学的社会主義の名のもとにマルクスは歴史の絶対的法則を発見し、歴史は多少の曲折はあってもその通りに発展していく、という主張が長期にわたってなされたからである。私は科学的社会主義という用語は用いてもよく、過去の解釈は科学性に対する誤解があった、と考えている。
   
よく言われることだが、力学の法則がほぼ純粋に働く天文学では、日食や月食の開始から終了までを秒単位の正確さで予測することができる。しかし同じ自然科学でも気象学では、明日の天気予報すらしばしばはずれる。複雑な要素がからまり、力学の法則が単純に働かないからである。気象衛星など最新の科学技術をもってしてでもである。さらに、活きた生命体を扱う生命科学の分野では予測不能の突発現象がおこる。約10年前のSTAP細胞事件では、日本最高の知性の持ち主とされる科学者すら判断を誤る、またはだまされることが明らかになった。
   
人間社会や人間自体の活動を対象とする人文社会科学では、未確定の事項がまだあまりにも多い。しかも研究の進展により新たな情報が次々に加わり、これまでの定説を覆していく。マルクスが『経済学批判』序言で導きの糸(仮説)として提出した内容に基づく人類社会の5つの発展段階は、今日の歴史学界では、そのように発展した人間社会はどこにもなく、実際に存在した社会はそれにあてはまらない形態が大半であることが明らかになって、もはや打ち捨てられてしまっている。
   
マルクス主義(科学的社会主義)は科学そのものか、科学に裏打ちされたイデオロギーか、の論争は、科学性をこのように考えていくとあまり意味がない。マルクス主義のある部分は確かに科学に根拠づけられていることを確認しつつ、人間社会全体に対しては、独断的にすべてがわかっているという態度をとるのではなく、近代科学の創始者の1人ニュートンが述べた「自分は未発見の真理の大海の前で、海岸できれいな貝殻を見つけて喜んでいる少年のようなものだ」という謙虚な姿勢をもつことが、人間社会に対する科学的な態度ではないだろうか。
   
近年の本誌は社会主義を誌名とする刊行物でありながら社会主義理論に関する論考が極めて少なく、私は残念に思っていた。そのため、この機会に個人意見を述べさせていただいた。読者の参考になれば幸いである。
   
   
注1 瀬戸宏「社会主義と社会民主主義の関係――概念整理と日本での状況整理を中心に」(社会主義理論学会『社会主義理論研究』第2号、2022年10月)参照。この論文は日本政府の外郭団体である科学技術振興機構が運営するJ-Stageに全文掲載されている。本稿では紙幅の都合で省略した部分も記述したので、興味のある方はご一読いただきたい。
   
   

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