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●2017年8月号
■ 『資本論』150年と向坂逸郎
     小島恒久

   

■ 『資本論』完成の道

マルクスの『資本論』第1巻が刊行されたのは1867年ですから、今年は刊行150年になります。この書が出版された時盟友のエンゲルスはこう言いました。

――「この世に資本家と労働者が存在するようになって以来、労働者にとって本書ほどの重要性を持つ書物はまだ一冊もあらわれていない。今日のわれわれの全社会制度がそれを巡って回転する軸である、資本と労働との関係が、ここにはじめて科学的に、しかも一ドイツ人だけに可能であるような徹底性と鋭さとをもって、展開されたのである」。

150年前に書かれたこの文章は、今もそのまま妥当します。「資本主義とは何か」を根源的に問い、その本質を体系的に明らかにしたという点で、われわれは『資本論』を超すものをまだ持ちえていません。今後とも資本主義がつづくかぎり、本書は不滅の金字塔でありつづけるでしょう。
   
だが、この不朽の大著をものするためには、天才マルクスをもってしても、実に長い歳月が必要でした。マルクスが経済学の勉強を始めたのはパリ在住中の1844年でした。その後ロンドン亡命とともに、経済学の研究を本格化しました。有名な大英博物館に、朝から夕方までこもり、家に帰ってからも深夜まで研究をつづけました。そして1857〜58年には「経済学批判要綱」という膨大な草稿を書き、59年にはそれにもとづいて、その最初の部分を『経済学批判』第1分冊として出版しました。その後も産みの苦しみはつづき、『資本論』の完成にいたるまで、マルクスは幾度となく著述プランを練りなおし、幾種類もの草稿を書きました。その微塵もゆるがせにしない科学的良心と厳しい自己彫瑑のために、その仕事の完成は延び延びにならざるをえませんでした。
   
加えて1864年には第一インタナショナルが創立され、それへの献身が『資本論』執筆の時間をさき、マルクスはその合間をぬって、夜を徹する勉強をつづけねばなりませんでした。その過労がマルクスの健康をむしばみ、持病の肝臓病に加えて、ヨウを頻発させました。とくに66年にはそのため重体になりました。そしてこの病気が、さらでだに苦しい一家の家計ををさらに逼迫させ、一家は借金と質屋通いに追われねばなりませんでした。そうした状態をマルクスは若い友人マイエルにあてて、「この著書のために私は健康と人生の幸福と家庭を犠牲にしました」と書き送っています。
   
こうしたマルクスとその家族の苦しみとともに、『資本論』の完成のためには、親友エンゲルスの物心両面にわたる助力が欠かせないものでした。赤貧洗うようなマルクスに、『資本論』の執筆をつづけさせるために、エンゲルスは父と妥協し、「犬の商売」といってきらっていたマンチェスターの父の会社で働き、マルクスに仕送りをつづけました。またマルクスは執筆中、事あるごとにエンゲルスの意見を徴し、エンゲルスもそれに答えて、懇切な手紙を実にたくさん書いています。『資本論』はこうした2人の友情の所産であったということができます。
   
こうして『資本論』第1巻は1867年9月14日、ハンブルクのマイスナー書店から出版されました。明治維新の1年前、マルクス49歳の時でした。この初版の発行部数はわずかに1000部で、それを売りつくすのに4年かかりました。これでは執筆中にふかした安タバコ代にもならないとマルクスがこぼしたのも無理ではありません。こんにち日本だけでも延べ400万部を越していると言われるその売行きと比べると、全くウソみたいな話であり、先覚者の道がいかに厳しいものであったかを、このことはよく示しています。
   
この『資本論』第1巻は『資本の生産過程』と題され、資本主義的生産の本質とその発展法則を明らかにしています。すなわち、商品の分析にはじまって、資本主義的生産の基軸をなす剰余価値の理論を説き、資本主義の発展とその生む矛盾の帰結として、それが次の社会、すなわち社会主義社会に変わらざるをえないゆえんを解明しており、全3巻の中でも最も基本をなす重要な巻です。
   

■ 社会主義の必然性と労働者の歴史的使命

この第1巻を出版した後、マルクスはさらにその続巻の完成にとりくみました。そして、すでにそれ以前から書いていた草稿に加えて、幾つもの草稿を書きつづけました。だが、病気のためにその仕事はしばしば中断し、生前にはついにそれを完成させることはできず、マルクスは1883年3月14日、65歳で亡くなりました。
   
ために、その残された膨大な草稿から、『資本論』の続巻を編集する仕事は、エンゲルスにゆだねられざるをえませんでした。これはエンゲルスだけができる難事業でしたが、エンゲルスは「これを整理するのはうれしい、その時私は旧友と一緒にいられるから」と知人に語りながらその仕事をつづけました。そして、1885年6月に第2巻「資本の流通過程」を出版し、さらに死の前年の1894年12月に第3巻「資本主義的生産の総過程」を出版することができました。
   
だが、エンゲルスの死後になお残された膨大な草稿がありました。それは『資本論』の第4巻に予定されていた学説史的な部分であり、その整理は、エンゲルスの生前からその仕事を手伝っていたカール・カウツキーに引きつがれ、その後10年を経て1905年〜10年に刊行することができました。『剰余価値学説史』といわれるものがそれです。
   
『資本論』はマルクス自身が言っているように、「近代社会(資本主義社会)の経済的運動法則を明らかにすること」を「究極目的」としています。そのためマルクスは、「経済学批判」という副題が示しているように、従来の経済学を「プロレタリアート階級」の立場にたって徹底的に批判し、「革命」(レーニン)して、資本主義の本質とその矛盾を根底から暴露しました。すなわち、価値法則から剰余価値の法則、さらに資本主義的蓄積の一般的法則と分析の筆をすすめました。その中でとくに強調したのは、その資本蓄積の過程で労働者階級の生活の悪化、不安定化がすすみ、それが労働者階級の反抗の増大を惹起し、階級闘争を激化させる。そしてそれが資本主義の没落と社会主義を実現させることを明らかにしました。こうして社会主義社会の必然性と、その変革をなしとげる主体が労働者階級にほかならないことを解明しました。その意味ではこの『資本論』によって、社会主義は言葉の真の意味で「科学」になったということができます。
   
このように『資本論』は労働者階級の立場にたって資本主義社会を分析し、労働者階級の「歴史的使命」を明らかにした本ですから、労働者階級にとってまさに必読の書ということができます。マルクスもまた、働く人びとに読んでもらうことを最も望んでいました。
   

■ 現代に生きる『資本論』

以上、資本主義社会の究明のためには『資本論』を読むことの重要性についてのべました。とは言っても、『資本論』が書かれたのは、今より150年前のことですから、その後大きく変わった資本主義の現状をそれだけで解明できるというわけではありません。だが、「資本主義とは何か」を根源的に問い、その本質を体系的に明らかにしたという点で、われわれはこの『資本論』を超えるものをまだもちえていません。だから、資本主義経済の混迷が深まるたびに、この原点に立ちかえって今日の問題を考察し、そのたどる方途を探求してみようという動きがおこります。現に近年の資本主義の矛盾の深まりの中で『資本論』が見直されてきています。
   
資本主義的蓄積の生みだす矛盾として重要なものに恐慌があります。この恐慌は資本主義だけが持っている業病であり、封建社会の飢饉のように物不足によって起こるのではなく、物が出来すぎて――つまり過剰生産の結果、失業者など生活に困窮するものが増えるという奇病です。こうした恐慌は、資本主義社会では産業革命期以降くり返し起こりましたが、なかでも巨大な規模と深さをもって生起したのが、1929年の世界恐慌でした。この深刻な世界恐慌に対処して、資本主義諸国では国家が全面的に経済過程に介入して危機の打開をはかる、いわゆる国家独占資本主義へと移行しだしました。そうした時期の代表的な経済理論として登場したのがケインズ理論でした。これは国家が財政・金融面からのテコ入れを強めて、有効需要を作り出し、恐慌の打開をはかるとともに、完全雇用を実現しようとするものでした。この世界恐慌を機にあらわれた介入政策は、第二次大戦後にも引きつがれ、さらに整備されて戦後の復興を支えるとともに、その後の経済成長を促進してきました。
   
だが、この戦後の成長を支えてきた枠ぐみが、1970年代になると崩れだしました。すなわち、71年のドル・ショック、73年のオイル・ショックと相次ぐショックをうけて、資本主義経済はスタグフレーション(不況とインフレの同時進行)におちいり、従来のケインズ流の景気刺激策では、その構造的危機の打開はなかなかできませんでした。
   
こうした事態に対処して、1980年代以降に登場したのが新自由主義でした。この新自由主義では「小さな政府」を旗印として、市場原理主義を基調とする政策が推進されました。そして資本の自由競争による生産力の増強に力を入れるとともに、自助努力を強調し、社会保障費を抑制しました。また規制緩和が強行され、その冷酷な競争下に各種の格差が拡大しました。さらに労働面でも規制緩和が強行され、労働者の権利を剝奪して、労働者の搾取を強化し、人減らしなど人件費の削減がはかられました。こうした新自由主義のもとでは消費は伸びず、伸びる生産力と消費のギャップが極めて大きく拡大し、過剰生産、過剰資本が累積して、新たな経済危機を深めることになりました。
   
こうした現象は、マルクスが『資本論』の「資本主義的蓄積の一般的法則」で説いている内容の現代版といってよいでしょう。このように、新自由主義のもとで資本主義がその本性をむき出しにするとともに、『資本論』で指摘していることの正しさが改めて実証され、それを学ぶことの重要性をわれわれに知らせています。近年マルクス・ルネッサンスといわれるように、マルクスの『資本論』が見直されている背景には、こうした資本主義の閉塞状況があるということができます。
   

■ 向坂先生とマルクス

今年は『資本論』第1巻刊行の150年であるとともに、わが社会主義協会創始者の一人向坂逸郎先生の生誕120年でもあります。向坂先生は1897(明治30)年2月6日、福岡県大牟田町(現大牟田市)に生まれ、1985(昭和60)年1月22日、東京で亡くなられました。87年の生涯でした。
   
その一生は自他ともに認めるように、マルクスとともに歩かれた生涯でした。研究という点でもそうであったし、マルクス文献の収集という点でも、徹底した傾倒ぶりでした。戦前日本で世界最初の『マルクス・エンゲルス全集』(改造社版)が刊行されたのは、ひとえに先生の膨大なコレクションに負っていました。
   
マルクス理論の研究という点でも、数々の業績を残されました。主な著書だけでも、戦前の『資本論体系』上下(改造社)、『現代論研究』(改造社)をはじめ、戦後の『経済学方法論』全3巻(河出書房)、『マルクス経済学の基本問題』(岩波書店)などの力作をあらわされました。またこうした長年にわたるマルクス研究を集成した形であらわされたのが名著『マルクス伝』(新潮社)であり、これは向坂先生でなければ書けないマルクス伝でした。
   
またマルクスの理論を日本に適用し、日本資本主義を分析した著書としては、『日本資本主義の諸問題』(育生社、戦後、社会主義協会出版局などから再刊)などがありました。さらに戦後は、経済問題だけでなく、政治的・実践的な諸問題についても活発な発言をつづけられました。日本で最初に平和革命を提起した論文「歴史的法則について──社会主義の展望」(『世界文化』1946年9月号)をはじめとして、こんにち『日本革命と社会党』などに収録されている諸論文がそれでした。これらの著述は、その時どきの日本の社会主義運動に大きな影響を与えました。これらを通じて先生は、いかに日本に正しいマルクス主義の理論と運動を根づかせるかに努力されたのです。
   

■ 論争の生涯

先生の執筆活動の大きな特徴は、その著作のかなりなものが論争の中で書かれたということでした。先生はみずからの一生を「論争の生涯」と述懐されていますが、その言葉のように戦前・戦後と数多くの論争に参加されました。戦前の価値論争、『資本論』の地代論をめぐる地代論争、日本資本主義をめぐって労農派と講座派(共産系)との間で展開された日本資本主義論争、戦後の左派社会党の綱領をめぐる綱領論争、社会党内に生起した江田三郎氏らの「構造改革論」にたいして闘われた構造改革論争などはその代表的なものでした。これらはいずれも、日本のマルクス主義の理論と運動がもった論争でしたが、先生はその中心的な論客として活躍し、論争史に残る多くの著作を書かれました。
   
なかでも、労農派の驍将として、講座派の山田盛太郎氏らとたたかわれた日本資本主義論争は歴史に残る名勝負でした。山田氏ら講座派の人たちが日本における封建的支配を強調したのにたいし、向坂先生ら労農派は、独占資本の支配を正面に据え、つねに労資の階級的視点を堅持した所にその特徴がありました。この日本マルクス主義陣営を二分する形で展開された日本資本主義論争は、日本資本主義の研究水準を大きく引き上げ、その後の研究発展の土台となりました。だがこの論争は決着をみないまま、1937年2月の人民戦線事件の弾圧によって、暴力的に終息をよぎなくされました。
   
この人民戦線事件というのは、労農派の理論家をはじめ、政党・労働組合・農民組合などの合法左翼の活動家446名を検挙した弾圧事件でした。向坂先生は、山川均、荒畑寒村、大森義太郎、猪俣津南雄、鈴木茂三郎氏らとともに検挙され、獄中生活をよぎなくされました。そして治安維持法違反として起訴され、裁判にかけられました。裁判の結果は、東京刑事地方裁判所の第一審が懲役2年であり、東京控訴院での第二審が懲役2年、執行猶予3年でした(戦後免訴)。
   
その間、1939年5月に保釈になりましたが、文筆活動は(翻訳を含めて)許されませんでした。ために、肥たごをかついで藷を作り、戦時の飢えをかろうじて凌がねばなりませんでした。
   

■ 学習会活動と三池闘争

先生は1928(昭和3)年、「左傾教授」として九州大学を追放になりましたが、戦後の民主化政策で1946年春九大に復帰されました。その翌47年春に私は九大に入学しましたので、早速先生の講義をうけました。その講義は法文学部で最も広い11番教室で行われました。先生は当時、戦時中のブランクを取りもどすような勢いで研究を進められていましたが、その研究ノートを読みあげて学生に筆記させ、時々それにコメントを加えるという淡々とした講義ぶりでした。その講義ノートがやがて河出書房から『経済学方法論』の第一分冊、第二分冊、第三分冊としてつぎつぎに刊行されましたが、このように講義と、その出版が同時並行的に進行していくというのはなかなか刺激的でした。ゼミでも先生のゼミに参加しました。そのテーマは地代論でした。
   
1950年春、私は九大の経済学部を卒業し、大学院特別研究生に進みました。指導教官は向坂先生でした。大学院では毎週先生の研究室で『資本論』の研究会がもたれました。その研究会での先生の指導は厳しく、『資本論』を聖書的に読むことをきらい、つねに「疑いうる精神」をもって自らの頭で考えぬけと諭されました。だから他人の説を受けうりしたような安易なことを言ったら、こっぴどくやっつけられました。その研究会に参加した者は誰しも幾度かは叱られた経験をもっているはずです。だが、研究会の後の「学問的雑談」は楽しく、そういう時の先生は文字通り談論風発で、社会時評、人物評論から、文学、歴史、映画、恋愛にいたるまで、とめどなく話題がひろがりました。こうした中で私たちは、人生にたいする眼を開かれていったように思います。
   
向坂先生は九大だけでなく、東京の自宅でも近江谷左馬之介、長坂聡、吉田震太郎氏ら若い学究と『資本論』の研究会をもたれていました。そこでこの東京と福岡で別々にもっている『資本論』研究会のメンバーを一所に集めて、合同の研究会をもつことを先生は思いたたれました。その第1回が、私が大学院に残った1950年夏に信州で開かれました。松本の郊外、梓川と奈良井川の合流するあたりの、田の中の小さな家を借りて1週間の合宿をやりました。この合宿では、午前中に『資本論』を読み、夜はマックス・ウェーバーの『職業としての学問』を読みました。その賄い方はゆき夫人らにしていただきました。
   
これを第1回として、その後毎年夏に全国の理論グループが信州に集って、合同の研究会をやるようになりました。そうしたその後の合宿は、先生の信州における定宿であった松本郊外の扉温泉の明神館でやることが多く、そこで2〜3泊の研究会をもちました。
   
これがその後いろんな曲折を経ながら、今日の社会主義協会の理論グループの夏の研修会につながっていったのです。
   
こうした学習会を先生は研究者とだけではなく、労働者とももたれました。先生には、労働者が今日の資本主義社会を底辺で支えるとともに、次の社会主義社会を作り出す主体であるという信念があり、そうした労働者を学習会によって育てていきたいと思われたのです。だから、福岡でも東京その他でも数多くの学習会をもたれました。なかでも戦後初期から最も長く熱心に通われたのが三池の労働者との学習会でした。この学習会が三池の労働者に筋金を入れ、三池の組合を強化し、三池労組を日本最強の組合にまで成長させる一因となりました。
   
だから、この三池で1960年、三池闘争が起こった時は、先生は文字通り「わが闘争」としてその長い闘争にとりくまれました。「自分が行ったってなんにもならないだろうけど行かずにはおれない」とつぶやきながら、福岡から毎日のように三池に通いつづけられました。酷暑のホッパー小屋で、労働者と膝つきあわせて励ましあい、あるいは雑踏する炊き出し小屋の片隅で、タクアンをかじりながら飯をかきこんでおられる先生の姿が、昨日のことのように思い出されます。いわゆる「向坂理論」だけでなく、こうした労働運動に挺身する、ひたむきな生き方が、そのまわりにつねに若い活動家をひきつけてやまなかったゆえんでしょう。
   
こうした先生の生き方はしかし、世の誤解や非難をうけることの多い道でもありました。おそらく戦後の学者で、先生ほどはげしい毀誉褒貶の嵐にさらされた者はまれでしょう。戦後しばらくは左翼の人たちから「反動」と誹謗されました。逆に晩年は「極左」の名で非難されることが多くなりました。世の座標軸の移動につれて、その非難の方向も変わったのです。だが、世の非難がどうであれ、先生は自ら正しいと信ずる道を貫こうとされました。「汝の道を行け、そして人びとをして語るにまかせよ」という『資本論』中のフィレンツェ人の格言はまた、先生の最も愛好してやまない座右の銘でした。この孤立を恐れぬ思想的節操のいさぎよさは先生の真骨頂でした。その生き方は、時流に乗って巧みに変身を重ねる世の才人的処世術とはおよそ対蹠的でした。その不器用な生き方を、先生自身「愚者の道」と称されていました。が、その愚かな道を歩きつづけることを変えようとはされませんでした。愚者もいなければ世の中は変わらないという自負と、明日の歴史を恃む楽天性が、その生き方を支えていました。そして強靱な意志でその生き方を貫きとおされました。
   
先生はかねてこう言われていました。「自分が信奉するマルクスはもう世にいない。だからマルクスに直接聞くことはできない。しかし、マルクスが生きていたら今日の事態をどう考え、どう行動するかということをつねに沈思し、行動することにしている」と。同じことを私は向坂先生について言いたいと思います。
   

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