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●2015年8月号
■ 戦後体制「脱却」、70年の攻防を顧みて
   佐藤 保

   

■1.

安倍首相が、第一次政権発足時に、そこからの脱却として掲げた「戦後レジーム」とは、なにか。
   
日本は、1945年8月、米、英、仏、ソ連などの「連合国」の降伏勧告である「ポツダム宣言」を受諾して、アメリカ軍を主力とする連合国軍隊の占領下におかれた。正確には、アメリカ軍を主力とすると言うよりも、アメリカの事実上の単独占領であったが。
   
安倍首相は、国会でポツダム宣言を、つまびらかには読んでいないと答弁したが、ポツダム宣言が提示した降伏条件は、ごく大まかに要約すれば、次のごとくであった。

  1. 軍国主義の排除
  2. 日本の戦争遂行能力が破砕され、平和、安全、正義の新秩序が建設されるまで、連合国は日本を占領する
  3. 侵略領土の返還
  4. 軍隊の完全な武装解除と軍隊の解散
  5. 戦争犯罪人の処罰、民主主義の復活・強化にたいする障害の除去、言論・宗教・思想の自由、基本的人権の尊重の確立
  6. 経済の非軍事化・民主化
  7. 以上が達成され、日本国民の自由意思による平和的で責任ある政府が樹立されたら、占領軍はただちに撤退する

このポツダム宣言が「降伏後初期におけるアメリカの対日方針」として具体化され、それにもとづき占領政策が行われた。
   
敗戦の翌46年11月、第一次吉田内閣のとき、憲法改正によって生れた主権在民、基本的人権の保障、徹底した平和主義を基調とする新憲法は、自民党などの保守・反動勢力が批判するようなアメリカにおしつけられたといったものではなく、第二次大戦を闘い勝利した国際的な反ファシズム、反軍国主義勢力が、降伏勧告として日本に提示した「ポツダム宣言」を日本が受諾した結果にほかならない。
   
こうして、新憲法にもとづく、戦後日本の国づくり、「戦後体制」、安倍首相のいう「戦後レジーム」づくりが始められたのである。
   

■2.

ところが、日本が降伏し、戦争が終ると、戦時中は結束していた国際的な反ファシズム・反軍国主義勢力は、分解しはじめた。
   
1947年には、アメリカのトルーマン大統領が、共産主義封じ込め政策をトルーマン・ドクトリンとして打ち出した。48年にはアメリカの陸軍長官が、日本をアジアにおける反共の「防壁」とすると公言し、対日政策を転換しはじめた。1950年6月、朝鮮戦争が始まると、警察予備隊(7万5000人)が創設され、日本の再軍備が始められた。
   
他方、アメリカは、50年10月、「対日講和七原則」を発表し、ソ連などの反対を無視して、51年8月、対日講和条約の最終案を公表した。そして、51年9月4日から対日講和会議が開かれ、8日には、中国、ソ連などの社会主義諸国を除外して、いわゆる「片面」講和条約と日米安保条約が調印された。
   
この講和(平和)条約と安保条約には、「平和問題談話会」に結集した安倍能成、大内兵衛らの知識人、社会党、総評など労働者運動の主力部隊が、強く反対し、協力して反対運動を組織し盛り上げた。
   
社会党は、これより前、1949年12月、中央執行委員会で、「講和問題に対する党の一般的態度」を決定し、資本主義諸国だけとの単独講和ではなく、全面講和、平和憲法の規定する中立的立場の堅持、特定諸国への軍事基地提供反対などを含む、軍事的・政治的協定の締結反対という、全面講和、中立堅持、軍事基地提供反対の「講和三原則」を、決定していた。
   
さらに、51年1月の第7回大会で、平和三原則の放棄を迫る右派の修正案を大差で否決し、従来の三原則に、「再軍備反対」を加えた「平和四原則」を決定した。
   
そして、空席の委員長に、左派のおす鈴木茂三郎を選出した。そのとき、鈴木が行った「青年よ再び銃をとるな、婦人よ夫や子供を戦場に送るな」という呼びかけは、党員や支持者に強い感銘を与えた。
   
この「平和四原則」は、その2カ月後の51年3月に開かれた総評第2回大会でも採択され、総評の基本方針として決定された。日教組、国労、全逓、全電通、全専売、合化労連、電産、私鉄総連、全鉱、全日通、全自動車、全港湾、新産別など、当時の労組の主要組織のほとんどが、「平和四原則」堅持の方針を決定した。
   
社会党が「平和四原則」を決定するのに、理論面で大きな役割を果したのは、山川均であった。山川の著書『日本の再軍備』(岩波新書)には、そのことを示す「安全保障は必要か」、「中立主義」など、一連の論文がおさめられている。社会党、総評は、51年7月、宗教団体、文化団体などと共に、日本平和推進国民会議を結成し、平和憲法を守れ、全面講和、中立堅持、軍事協定反対、言論、集会、結社の自由などを掲げて、全国的な大衆運動を盛り上げた。
   
しかし、講和、安保両条約の調印、批准を阻止することはできなかった。51年10月の衆議院の採択では、平和条約は賛成307、反対47、安保条約は賛成289、反対71という大差で可決された。
   
講和、安保の両条約をめぐるたたかいは、敗北した。しかし、さきに見たように、日本の労働者階級の組織された主力である、社会党と総評が「平和四原則」で固く結ばれ、いわゆる社会党・総評ブロックとして、60年代から70年代にかけて、日本の労働者運動のけん引車となり、独占資本とその自民党政府の反動攻勢に立ち向かい、後退を強いられながらも、憲法改悪をぎりぎりのところで食い止め、「戦後レジーム」の破壊を阻止してきたことは大きな成果であり、高く評価されねばならない。
   

■3.

朝鮮戦争で巨額の利潤を蓄積して、財閥解体から立ち直った日本の独占資本は、講和・安保の両条約によって、米国への従属下で、一応の政治的独立を果たし、軍備の増強、改憲への道を急ぎ始めた。両条約を結んだ吉田茂・自由党政権は、警察予備隊を保安隊へと、「戦力のない軍隊」というごまかしで解釈改憲をおし進め、54年3月には、MSA協定(日米相互防衛援助協定)に調印し、保安隊を自衛隊へと「発展」させ、防衛庁を設置するに至った。
   
この吉田茂・首相の解釈改憲路線にたいし、野党の改進党は「民主的自衛軍」を創設する、として、明文改憲をうちだした。自由党内でも51年8月に追放解除となった、鳩山一郎、岸信介たちが、次第に勢力を拡大し、同じ道を進みはじめた。そして、54年、これらの反吉田勢力によって、民主党が結成された。同年12月には、吉田に代って、鳩山一郎が首相となり明文改憲を掲げて、衆院を解散した。
   
翌55年2月に行われた総選挙は、改憲か護憲かを主要な争点とするたたかいとなったが、改憲派の二大政党、自由党122、民主党185にたいし、改憲反対の左社89、右社67、労農4、共産2、諸派2、無所属6となり、改憲反対が衆院で3分の1以上を占めた。なお、翌56年7月に行われた参院選でも、改憲反対勢力が院内の3分の1を上回り、明文改憲は、ひとまず阻止された。
   
これにたいし、鳩山首相は、自由党と民主党の「保守合同」(55年11月)をおこない、56年第24回国会に、「小選挙区制法案」を提出し、「3分の1」の壁を突破しようとしたが、院外での反対運動の盛り上がりもあって、廃案となった。
   
鳩山首相は、日ソ国交回復を実現し、日本の国連加盟の道をひらき、時限立法であったストライキ規制法を恒久立法化した後、引退した。その後をうけついだ石橋内閣は、首相の病気で短命に終り、東条内閣の閣僚でA級戦犯であった岸信介が首相となった。
   
岸内閣の最大の課題は、日米安保条約改定と、それによる日本の再軍備の本格化、日米共同作戦体制の強化、具体化であった。
   
1951年に結ばれた日米安保条約は、第一条に「日本国は武装を解除されているので、平和条約の効力発生の時において固有の自衛権を行使する有効な手段をもたない」「アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する」と規定しているように、講和後も、事実上米軍が日本の占領を継続するためのものであったから、「片務的」であった。58年9月の藤山外相とダレスとの安保改定交渉でも、このことを、藤山は次のように述べている。「現行安保条約は片務的で駐留米軍に日本防衛の義務規定がないのに、基地の提供、米軍の配備、通過などに特権を与えている。しかも米軍の日本基地からの出動に日本の発言権がないことなどが国民感情を刺激している」。
   
そこで、この「従属安保」を双務的で平等なものにするとして、日本の側から、安保改定をもちだした。その結果、60年1月、調印された新安保条約は、日米の共同責任による相互防衛の軍事条約となった(条約全文、第五条)。また、旧条約が、「日本を防衛するため」としていたのにたいし、米軍基地が「極東における国際平和・安全の維持に寄与するために使用する」のを許される(第六条)とした。さらに、日本の軍備増強を「義務」と規定した(第三条)。
   
このような安保条約「改定」には、当然に大きな反対運動がおこった。
   

■4.

安保改定交渉の第1回日米会談がおこなわれた4日後の4958年10月8日、岸内閣は、警察官職務執行法(警職法)改正案を、国会に上程した。
   
これは、警察官が「公共の安全と秩序」をいちじるしくそこなうと判断した場合には、令状なしで逮捕、身体検査、住居侵入などができるように、警職法を改悪しようというものであり、戦前の「オイ・コラ警察」の復活そのものであった。そのねらいは、「安保改定」の反対運動を、あらかじめおさえこもうとするところにあった。
   
社会党をはじめ野党は、国会内では圧倒的に少数であったが、それを補完する院外の大衆闘争は急速に大きく盛り上がった。
   
法案が出された翌9日には、社会党と総評、中立労連、全労、新産別の労働4団体、護憲連合、全日農が協議し、青年学生共闘会議、人権を守る婦人協議会など9団体が幹事団体となり、10月14日には警職法反対国民会議が結成された。
   
国民会議を中心とする運動は約2カ月間にわたって、労働者階級を中軸として、文化人、知識人、芸能人など広範な階層、多くの婦人団体、青年団体、宗教団体などを結集して空前の盛り上がりをみせ、警職法を廃案に追い込み、60年安保闘争の前哨戦として大きな役割を果たした。
   
しかし、警職法反対国民会議を、安保条約改定阻止のための共闘組織に改組発展させることには全労、新産別などが反対し、警職法反対国民会議は、59年2月、解散した。
   
そして、3月に、134団体の代表、650名が参加し、安保条約改定阻止国民会議が結成された。幹事団体には、社会党、総評、中立労連、原水協、平和委員会、日中国交回復国民会議、護憲連合、全国基地連、日中友好協会、全日農、人権を守る婦人協議会、青年学生共闘会議、平和と民主主義を守る東京共闘会議の13団体が決定され、共産党はオブザーバーの資格で幹事団体会議に出席することになった。さらに、事実上の下部組織として、全国に約2000の共闘組織が結成された。
   
1960年「安保闘争」はこうして始まったが、実際には、さきに見たように、政府が、安保改定交渉開始の直後に、警職法改正案を国会に出してきたため、警職法改悪反対闘争として、すでに58年10月から始まっていた。
   
安保闘争は、どのように闘われたか。
   
安保条約改定阻止国民会議の、事務局次長であった伊藤茂氏は、次のように述べている。

「国民会議が結成されたあとの安保闘争の経過は、大きくわけて60年1月19日までの交渉反対、調印阻止闘争の段階、その後5月19日の単独採択までの批准阻止闘争の段階、5月20日から7月19日の岸内閣退陣、池田内閣成立までの批准阻止・岸内閣打倒・国会解散要求の段階の3つの段階にわけることができる」。
   
「交渉反対・調印阻止闘争の段階でまず運動に求められたのは徹底した教宣活動であった。(略)『安保は重い』『警職は3分で説明できたが安保は30分かかる』という活動家の声にみられるように、運動の基礎となる教宣活動に大きな努力が必要とされた。加えて6月の参議院選挙において、自民党10議席増、社会党11議席減という結果もあって、安保改定阻止を大衆の中に浸透させる努力は困難なものであった。
   
しかし、全国の活動家はこの地道な活動を着実につみあげた。(略)学習、討論、宣伝と全国統一行動のつみあげが運動初期の基本となっていたのである。(略)」
   
交渉反対・調印阻止段階のたたかいの中でさらに指摘しなければならないのは59年1月〜60年1月の段階における運動の経過である。この期間における闘争――11月27日の第八次統一行動における国会突入事件、12月10日の第九次統一行動における国会動員中止、1月14日の岸首相を団長とする安保調印団の渡米の時期を中心とする行動についての論争などを通じて問題となったのは国民会議の指導の混迷であり、闘争方針・戦術についての不安定性であった。(略)」
   
「60年安保闘争の第2段階――批准阻止闘争の中で最も大きな問題は、59年末以来の運動の挫折感や不満を正しく分析・総括して新しいたたかいの発展にとりくむことであった。この点で1月28日に開かれた第4回全国代表者会議はきわめて重要な意義をもっている。この会議で一致して決定した批准阻止闘争計画は、一時的な停滞と混乱をのりこえて国民的な大闘争に発展させるための画期的な役割をもっていた。
   
この闘争計画は、改定安保条約の国会審議の見通しについて『衆議院においては予算審議の終了する3月上旬が一つのヤマとなり、4月中旬に最終的段階をむかえることになるだろう』との判断のうえに、活動計画の第一に『安保改定阻止・生活と権利を守る大行進』を決定した。そして『この行進はあらゆる町村をとおり、あらゆる町村での抗議集会の意見を結集し批准国会に反映させる』ことを目的にし、『生活と権利の要求、自治体に対する闘争と結合させ、これを通じて全国すべての地域で国民総ぐるみの運動をひろめ、地方共闘を強化する』と規定し、これを軸にして請願署名、戸別訪問、カンパ活動、講演会、知人・友人への手紙運動などを展開する内容となっていた。
   
2〜3月のこの活動は全国各地で着実につみあげられた。いままでこの経験ほど精力的に末端からの運動をつみあげる努力をしたことはなかったと思う。この活動によって、運動の不安定な構造──国民的基盤の未成熟と中央における求心的な激しい闘争の関係を大きく転換させ、4月以降の爆発的な高揚の基盤をつくることになるのである。
   
さらにこの闘争計画の意義は、『4月中旬の衆議院の最終段階において、労働組合の大規模ストライキを中核とし、国民諸階層の総決起体制を確立することを決定し、ストライキを軸とする国民的な総行動をはじめて提起したことである。
   
このような努力を通じて闘争体制は急速に強化され、3月18日の第5回全国代表者会議では、国民大行進の参加者が1000万人にのぼり、請願署名は400万人をこえ、地方共闘組織は1月末の700から1200に拡大したことが集約され、闘争は急速に国民的なものに発展していった。3月19日の第13次全国統一行動では中央の『安保批准阻止・国会解散・岸内閣打倒・中央国民大会』は4万5000人を結集する大集会となった。
   
このような運動の発展の過程の中で重要な役割を果たしたのは国会闘争との結合である。新条約が正式に国会に上程されたのは2月5日であるが、鈴木茂三郎社会党委員長の代表質問で口火が切られた論戦は、予算委員会から安保特別委員会へとひきつがれ、3カ月半にわたって展開された。この論争の中で社会党は、『極東の範囲』『国会の修正権』『事前協議』『日米共同作戦』をはじめ条約の問題点をきびしく追及し、院外におけるこの時期の努力を結合してたたかいの国民的基盤を大きく拡大した。このような中で国民各層に運動は拡大し、文学者、演劇人を中心とする『安保批判の会』や『安保改定阻止法律家会議』などが結成されたのである。(略)    
この段階のたたかいにとって大きな意義をもったのは三池闘争との関連であった。4月から5月にかけて果敢に展開された三池炭鉱の労働者のたたかいは安保闘争と結びついて発展し、また安保闘争の発展が三池闘争を激励するものとなった。三池闘争に参加した活動家は、また安保闘争のにない手となって職場のたたかいを強化したのである」
(『戦後社会主義運動の再編成』(河出書房新社))。

■5.

大衆運動の盛り上がりにもかかわらず、安保改定を阻止することはできなかった。しかし、安保改定を強行した岸内閣を辞職、退陣に追い込み、その後、安倍政権の登場に至るまで長年にわたって、明文改憲とそれによる戦後体制「脱却」の策動を封じてきた。
   
だが、日本の支配階級は、その間、無為に過してきたわけではなかった。かれらは、改憲の最大の障害であった「社会党・総評ブロック」つぶしに全力でとりくみ、それをなしとげ、いわば、地面を平らにして、安倍政権に、戦後体制「脱却」の遂行を託したのである。
   
安倍政権は「任期中の憲法改正」を公約にして発足したが、反対世論の盛り上がりに直面して、明文改憲を正面からうちだすのでなく、解釈改憲を無制限に拡大して、実質的な「明文改憲」を行うという、ぎまん的な戦術に転換した。
   
それが昨14年7月1日に行った、これまでの政府解釈を大転換し、集団的自衛権の行使を認め、他国軍への後方支援を拡大する閣議決定(「国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について」)である。
   
安倍政権は、この閣議決定を基礎とした、安保関連法案を国会に提出し、国会の圧倒的多数を背景に、成立を強行しようとしている。これを阻止するには、1960年の安保闘争にも劣らぬ大衆行動を盛り上げるほかない。
   
   

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