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●2011年11月号
特集「民主党政権2年間の検証」
■ 民主党結党から政権樹立15年の足跡を辿る
   善明建一
 
 

■一・統合・再編を繰り返す日本政治

1.民主党の結成が与えた日本政治へのインパクト

民主党は1996年9月28日に、新党さきがけの鳩山由紀夫・菅直人、旧社会党の横路孝弘(以下、敬称略)らによって結党されたものである。結党にいたる経緯は、1993年の非自民細川護煕連立政権の誕生まで遡る。
 
この政権は七党一会派で構成され、鳩山、菅はその1つであった新党さきがけに所属していた。 だが細川首相は1994年4月8日に東京佐川急便が絡む金銭疑惑で辞任した。これを受けて非自民グループは新生党の羽田孜を首相に擁立し、羽田連立内閣が1994年4月25日に発足する。その過程で、連立内の小沢一郎(新生党)、市川雄一(公明党)の強引な左派(社会党)切り捨てに反発した社会党、さきがけが連立を離脱する。羽田内閣は少数政権に転落して総辞職するが、その後に、自民党、社会党、さきがけの村山富市三党連立政権が6月29日にスタートした。一方で野党に転落した新生党、公明党、日本新党、民社党などは12月10日に新進党を結成した。
 
村山連立政権発足後、1年が過ぎた1995年7月に参院選が行われたが、自民党、社会党、さきがけの与党三党は敗北し、小沢一郎が率いる新進党が躍進した。この結果を見て、社会党・さきがけ両党は次の総選挙で壊滅的な打撃を受けると危機感を募らせた。こうして自民党、新進党に対抗する政界「第三極」作りをどう進めるかが、両党の間で議論されはじめるが、本音は新選挙制度の下での生き残りであった。94年の政治改革関連法の成立によって、中選挙区制は廃止となり、次の総選挙からは小選挙区・比例並立制が導入されることになったからである。
 
議席を確保するには「第三極」を担う新しい政治勢力の結集が必要になったのである。「第三極」作りは、最初、社会党の新党運動という形でスタートするが、これに伴ってさきがけとの合体構想が浮上する。社会党・さきがけ両党を中心に、民主・リベラル勢力の結集を図るというものであったが、両党の事情によってこれは実現しなかった。新党運動が実現しなかったのは、どちらかというとさきがけに問題があった。さきがけの武村正義代表以外は新党運動に反対し、その急先鋒の1人は鳩山であった。
 
こうして鳩山は独自の新党運動を構想し、これに菅が加わって、鳩山はさきがけを離党し、新党結成に走ったのである。だが当初国会議員50〜60議席規模の新党というもくろみは崩れ、10議席程度の淋しいスタートとなった。結党時に参加したのは、さきがけの鳩山、菅、枝野幸男、海江田万里、旧社会党出身の横路孝弘、社会党の赤松広隆、岡崎トミ子、新進党の鳩山邦夫らである。代表には、鳩山と菅の2人の代表制となった。
 
民主党結成の経緯は、以上の通りで、この民主党の性格は、当時、自民党、新進党という2つの保守政党に対して、「中道・リベラル」路線を志向するものとみる人が多かった。しかしながら、この当時、民主党内部で党の性格についてつめた議論が行われた形跡はみられない。
 
1996年10月20日、結党後初の総選挙で、民主党は「市民が主役の民主党」というスローガンで戦っている。この選挙では予想を超えて52議席を獲得して大きな注目を集めた。これでひとまず「第三極」の政党を作りあげるという最初の目標は達成することになる。その後、1997年9月18日に民主党は新人事で、菅代表、鳩山幹事長体制を確立する。一方、総選挙後の11月7日に社会党、さきがけは自民党との連立政権から離脱した。また、総選挙から1年2カ月が過ぎた1997年12月27日に新進党は結党後、わずか3年にして解党を決定し、党首の小沢一郎は1998年1月6日に自由党を旗揚げした。これに参加しなかった鹿野道彦ら保守系議員は、一足先に新進党を離党していた羽田の太陽党、細川護煕のフロムファイブと共に、1998年1月23日に民政党を結成した。
 
さらに、民政党、旧民社党の新党友愛、民主改革連合、社会党離党組などが大同団結し、1998年4月27日に第二次民主党を発足させた。これで民主党は衆参両院を合わせて国会議員131人となり、代表には菅、幹事長に旧民政党党首の羽田、鳩山は幹事長代理に収まっている。
 

2.「常勝する民主党」に自由党が合流する

民主党は第二次結党からわずか3カ月足らずで参院選を迎える。準備不足のため現有議席の維持は困難ではないかとみられていたが、選挙区で改選議席(8人)の倍近くの15議席を獲得、比例区と合わせて27議席を獲得した。一方、自民党は橋本龍太郎自民党内閣の不人気や1997年秋以来の経済危機の影響などもあり、改選61議席に対し、44議席しか獲得できず大敗した。
 
こうして民主党は1996年の第一次結党から2年で「自民党の対抗勢力」から、「二大政党政治の担い手」に成長することをめざすことになる。
 
この選挙結果の責任を取って、1998年7月30日に橋本内閣は総辞職し、小渕恵三内閣が発足する。小渕内閣は参院選敗北から反撃に転じるために、1998年11月19日に自由党党首の小沢に働きかけ、その後、自由党は1999年1月14日に、自・自連立政権に参加することになる。民主党は1999年9月の代表選で鳩山が菅と横路を破って代表に、羽田は幹事長に留任する。
 
2000年4月1日に、自・自・公三党党首会議で、小渕首相が自由党との連立解消を明言し、4月4日に小渕内閣は総辞職し森喜郎内閣が発足する。自由党は連立離脱組と連立政権残留組とに分裂し、自由党に残ったのは56人の国会議員のうち小沢ら24人の少数となった。これで連立の枠組みは、自民党、公明党、自由党を離脱して結成した保守党の三党連立に変化した。さらに2001年9月26日には森内閣が総辞職し、構造改革を掲げた小泉純一郎内閣が発足する。
 
民主党では2002年9月23日の代表選で鳩山が菅、横路、野田佳彦を破って三選されるが、12月3日、鳩山は党内混乱の責任を取って代表を辞任する。12月10日の代表選では菅が岡田克也を破って代表に3年2カ月ぶりに復帰し、幹事長に岡田が就任する。
 
2003年7月23日に、菅民主党代表と自由党党首小沢との間で、合併合意書に著名、9月24日に正式に合併し、代表は菅、幹事長は岡田が続投し、小沢は人事で何も要求しなかった。これで民主党は衆議院で138議席、参議院69議席の勢力となった。「民・自合併」の勢いを駆って11月9日の総選挙では、2000年の総選挙より50議席多い177議席を獲得し、自民党は選挙改選時より7議席少ない237議席で過半数割れとなった。この勝利を受けて、12月11日に民主党新人事で小沢が代表代行に就任することになる。
 
だが2004年5月10日に、国民年金未納問題で菅が代表を辞任、18日に岡田が代表に、藤井裕久が幹事長に就任する。さらに岡田代表で戦った2004年7月11日の参院選挙では、民主党は50議席を獲得し、前回の2001年からほぼ3倍増となった。自民党は改選の51議席にも届かなかった。共産党、社民党はそれぞれ4、2議席しか獲得できず護憲を掲げる両党の退潮が明確となった。
 

3.「郵政選挙」の敗北と2007年参院選の大勝利

2005年9月11日の「郵政解散」による総選挙で民主党は大敗する。自民党は小泉首相の「郵政民営化」というワンフレーズ選挙で「官から民へ」という構造改革を断行することで日本経済と国民生活を建て直すことを訴えて勝利する。自民党は単独で過半数を55議席上回る296議席を獲得、民主党は64議席を失い113議席しか獲得できずに惨敗した。結党以来、国政選挙で常勝してきた民主党は、初めて敗北することになる。
 
この責任を取って、12日に岡田は代表を辞任した。17日の後継代表選には、菅が名乗りをあげ前原誠司と争ったが、菅は僅差で敗れ前原が代表となった。だがその前原は、偽メール事件による混乱の責任を取って、2006年3月31日に代表を辞任した。
 
ポスト前原の代表選に菅が挑戦するが、4月7日の代表選では小沢が代表に選出され、幹事長には鳩山、代表代行に菅が就任した。これで「小沢・鳩山ライン」がスタートするが、代表選で小沢は、「変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければならない」(ルキーノ・ヴィスコンティ監督の映画『山猫』に出てくる言葉)を引用して、決意表明をしたことは、民主党国会議員に小沢の本気度を感じとらせ、勝利の一因になったと言われた。
 
一方、2006年9月26日に小泉内閣は総辞職し安倍晋三連立内閣が発足する。小泉首相の後を継いだ安倍内閣は、2007年7月29日「天下分け目」の戦いとなった参院選を迎えることになる。一方、民主党は小沢の代表就任から1年3カ月が過ぎていたが、当時「小沢・鳩山ライン」が選択した政治路線を簡単に振り返ってみよう。
 
実は「政権交代」が実現した2009年8月30日の総選挙で民主党が掲げた「マニフェスト」がクローズアップされるが、この時の「マニフェスト」は、2006年の参院選が下敷きになっていることは今ではあまり知られていない。民主党は参院選の「マニフェスト」となる「政策10本の柱」を6月13日に発表している。その内容は、「『むだづかい』ストップ、『生活』重視と『年金問題』」など、国民生活に直結する政策をトップに掲げている。それ以外に中小企業対策、天下り禁止と税金の無駄遣い根絶、子ども手当、僻地などの医師不足解消、農家の所得補償、地方への補助金廃止と自主財源一括交付、温室効果ガス排出量削減、対米外交の見直しなどを列挙している。
 
このように民主党の「マニフェスト」には、疲弊する国民生活と地方を救済する所得再配分機能を第一義的に図ることが全面に掲げられていた。また、憲法や日本の安全保障など、当時の安倍内閣が強く打ち出した政治路線に乗ることはなかった。民主党内は様々な考え方の政治家の寄せ集めであり、これを議論し始めると、選挙を前にして党内の結束を維持できないという事情があったからである。
 
小沢がもっとも心を砕いたのは、横路をはじめ旧社会党グループとで開きが大きい安全保障問題で、溝を埋める努力であった。この政策の摺り合わせのスタートは古く、2001年10月からだと言われている。当時、自由党は自民党との連立から離脱し野党に転じており、アフガンへの自衛隊派遣問題に関連したテロ特措法で自民党と対抗するために野党共闘を煮詰める話し合いを行っている。
 
さらに自由党と民主党が合併した2003年からの協議で自衛隊は憲法九条に基づいて専守防衛に徹する、国際連合中心主義を掲げ、国際協力のための常設組織である国連待機隊の創設、国連主導の多国籍軍への待機部隊の自衛隊参加などを柱とする合意書を2004年3月19日に小沢と横路との間で結んでいる。
 
2007年参院選での憲法、安全保障政策で民主党が取ったスタンスは、この時の合意と基本的に変わっておらず、憲法問題や自衛隊政策は一時棚上げにしても、国民生活に関連する政策を建て直すことが、政治の最大の課題である、との小沢の現実的判断があったと思われる。
 
民主党は2001年の参院選前後から、小泉構造改革路線に反対する主張を強め、自衛隊政策でも微妙に変化をみせていた。その後、自衛隊のイラク派兵には「即時撤退」を打ち出し、テロ対策特措法についても「延長反対」を主張した。これらの変化は、自民党政治と対決し、「政権交代」を強く視野に入れた一時的な方針転換という見方もできるが、この政策転換が参院選、続く総選挙で民主党勝利に繋がっていくことになったのは事実である。
 
こうした小沢の「政権交代」を全てに優先する戦略、戦術は奏功し、2007年7月29日の参院選で、民主党は60議席を獲得し、非改選議席と合わせて109議席に達する大勝利であった。比例区の得票は自民党を670万票上回る2325万票、得票率は39.4%と得票数、得票率とも過去最高を記録した。
 
一方、与党自民党は83議席(改選獲得議席37)、公明党が20議席(同9)、与党系無所属1議席を合わせて計104議席で、過半数を18議席も下回った。小渕首相が自民党と自由党、公明党の三党連立政権を作りあげた1999年10月以来、約7年10カ月ぶりに参議院で与党の過半数割れが起ったのである。
 
こうして小沢が描いた「参院選で与党を過半数割れに追い込み、選挙後の国会運営で主導権を握って、政権担当能力を示し、次期総選挙でも与党の過半数割れを実現して政権を獲得する」としたシナリオの1つは達成し、これをバネに次の総選挙に全力をあげることになる。
 

■二・実現した「政権交代」と「三党連立政権」

1.「ねじれ国会」で迷走を続けた自民党内閣

参院選の敗北の責任を取って、安倍内閣は総辞職し、9月26日に福田康夫連立内閣が発足した。だが参院選で与党が過半数を失ったことで、自民党、公明党の政権与党の政局運営は困難を極めた。福田内閣は参議院で国会同意人事(日本銀行総裁、副総裁など)が否決され、インド洋における海上自衛隊の給油活動の根拠法の延長が不可能になるなど、政府は大きな政策変更を余議なくされた。
 
福田内閣は局面打開の必要に迫られ、そこで急浮上したのが、自民党と民主党の大連立構想であった。福田首相と小沢民主党代表との間で、10月30日に2回目の会合が開かれたが、その構想に民主党執行部から強い批判、反対意見が出された。小沢は11月2日にこれを撤回し、責任を取って辞意を表明するが、鳩山、菅の慰留によって代表続投となった。
 
こうして通常国会は与野党の対立が激化し、予算は別にして関連する一般法(法律)が参議院で否決された場合は、与党が議席の3分の2を持つ衆議院で再議決によって成立させなければならなくなった。政権運営に行き詰まった福田は2008年9月1日に退陣を表明し、政権を投げ出した。9月24日に福田内閣は総辞職し、麻生太郎連立内閣が発足した。麻生内閣は、「選挙管理内閣」と揶揄されたが、9月以降のリーマン・ショツクによる世界金融恐慌の対応を理由に解散は先延ばしされた。時間をかけて支持率の挽回を狙ったが、演説原稿の漢字読み間違えなど、その資質が問われ、首相の威信は低下し続けた。自民党内には総選挙の苦戦を見越して麻生降ろしの動きが活発化する。
 
一方、民主党側には、2009年2月に小沢代表の政治資金団体が政治資金収支報告書に虚偽の記載をした容疑で、公設秘書が逮捕されるという衝撃が民主党に走った。これをめぐって自民党、公明党の政権与党はいうにおよばず、党内からも小沢批判が強まり、小沢は5月11日に代表辞任を表明した。
 
5月16日の代表選で鳩山が代表に、幹事長に岡田が就任した。小沢代表が責任を取って代表を退いたことで、政治資金問題は民主党にとって逆風にはならなかった。
 
麻生首相は衆議院の任期満了前の7月22日に解散に踏み切り、「政権選択」の総選挙に突入することになる。
 

2.国民は総選挙で「政権交代」を選択する

話は少し戻るが、小泉連立内閣が発足したのは、2001年9月26日で、日本経済と政治の閉塞感を打ち破るリーダとして登場し、小泉首相が退陣するのは、1996年9月26日であるから、5年間の長期政権が続いたことになる。
 
小泉内閣が取った経済政策は、新自由主義的政治路線であり、その柱は規制緩和による構造改革の断行であった。すなわち、サプライサイド(供給側=企業)を優遇した市場原理で企業の成長、経済効率を高めることが、国民生活の向上に波及するという考え方である。
 
その結果、小泉政治の5年間で、大企業のリストラ合理化、経済、社会、労働分野の規制緩和、大企業優遇の税制改革、社会保障の改悪などが強力に進められた。当然のごとく国内経済は疲弊し、非正規社員は全体の34.5%(1700万人)を超えるまでに増大した。年収200万円以下は実に1000万人に達し、社会的格差は拡大し、2008年の数字では日本の貧困率は25%に増大した。
 
日本経済はデフレ不況から抜け出せず、中小・零細企業の倒産などで、失業率は5%前後で高止まりし、学校を出ても正社員で就職できる有効求人倍率は、0.25倍前後までに落ち込んだ。一方で、大企業・金融資本に蓄積された過剰資本は実体経済にまわらず、過剰となった貨幣資本は各種債権・証券などに投資され、2001年から2008年の間に総額60兆円が回り回って円キャリーでニューヨーク市場につぎ込まれ、金融バブルを生みだした。結局、金融バブルは、リーマン・ショックで弾けた。
 
政府は金融恐慌をおさめることを名目に、金融緩和、財政政策によって大量の国債を発行した。その結果、日本の国債残高(借金)は膨れ上がり、さらに超「円高・ドル安」の進行は、日本経済再生の大きな荷物になった。
 
このように小泉内閣の新自由主義的政治で、国民生活、雇用、賃金、社会保障が破壊され、さらに日本経済を疲弊させるなど、日本社会は大きく壊されてきたのである。これらの全ては小泉自民党政治の5年間が元凶であり、この政治路線を継承した安倍、福田、そして麻生内閣であった。
 
こうした自民党政治に対する国民の強い不満、批判が、2009年8月30日の総選挙で、民主党が308議席を獲得し、自民党から民主党への政権交代が実現したのである。この選挙結果は、4年前の小泉首相の下で戦われた「郵政選挙」を裏返すように、民主党が圧勝したが、これは小選挙区選挙という選挙制度が持つ恐ろしさである。同時に民主党の「マニフェスト」が国民を引きつけたことも無視できない。民主党は自民党政治によって強いられてきた国民への痛み、拡大した社会的格差を是正する経済、社会政策、すなわちサプライサイドを重視した経済政策ではなく、生活者を重視した「コンクリートから人」に投資する政策、「外需依存に偏重した経済から、内需拡大経済への政策転換」を求めて戦った。その象徴が「国民生活が第一」であり、これを実現させるために「無駄の排除」、「官僚依存政治からの脱却」、「政治主導」であり、子ども手当、高校授業料無償化、高速道路無料化、農家個別所得補償(「4K」)に代表される政策であった。
 

3.「三党連立政権」の誕生と社民党が果たした役割

総選挙結果を踏まえ、2009年9月16日、民主党、社民党、国民新党による「三党連立政権」による鳩山内閣が発足する。幹事長には小沢が就任し、「鳩山・小沢ライン」による政権運営が進むことになる。新政権は国民に約束した「マニフェスト」の実現をめざすことになるが、そのために政権は「政治主導」を掲げ、事務次官会議の廃止、政務三役(大臣、副大臣、大臣政務官)によるリーダシップの確立など、政策決定や政権運営で官僚依存から脱却する方針を明確にした。
 
また、「官民の優秀な人材を集めて、新時代の国家ビジョンを創り、政治主導で予算の骨格を策定する」として、長期国家戦略を練る国家戦略室と行政刷新の両大臣を新たに設置した。さらに政府・与党の一元化で、総合的な政策決定を行うために党の政策調査会が廃止された。
 
そこで「三党連立政権」に参加した社民党の対応について、触れておきたい。社民党は、2009年9月9日に10分野33項目に及ぶ「三党連立政権合意書」に著名した。その内容は社民党が総選挙で掲げた政策がほぼ入っており、ただ民主党との政策の隔たりが大きい日本の安全保障政策については、その(9)に「自立した外交で世界に貢献(沖縄県民の負担軽減の観点から、日米地位協定の改訂を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方を見直す)」、(10)に、「憲法三原則の順守と諸権利の実現、国民生活の再建」などが確認された。また、安全保障、自衛隊政策についても精力的に協議され、文書化はされていないが、(1)憲法調査会は動かさない、(2)インド洋やソマリア派遣の自衛隊は撤収方向、(3)非核三原則堅持、(4)衆院比例定数削減の見送り、なども連立政権の存続にかかわる問題として、大筋合意されたと言われている。
 
この連立政権に参加した根拠は、『社民党宣言』にある「連立政権への態度」に基づいたものであるが、政策面では「三党連立政権合意書」の実現に期待が高まり、鳩山内閣のもとで一定の政策の実現が進みはじめることになる。
 
その幾つかを挙げれば、小泉政権時代に廃止された生活保護における母子加算の復活、原爆症基金法、肝炎対策基本法、月額1万3000円の子ども手当の創設、高校授業料無償化、高速道路の一部無料化、農家個別所得補償、JR不採用事件の解決、雇用・労働分野では新たなセーフティネットとして求職者支援法が成立し、非正規労働者の社会保険加入条件緩和の改正雇用保険法、そして不充分さは残っているが、労働者派遣法抜本改正も改正法案として国会に提出された。
 
また、政労使の「雇用戦略対話」で最低賃金を最低800円以上、平均で1000円をめざすと明記されたことも、自民党政権では考えられなかったことである。
 
情報公開も政権交代の大きな成果である。沖縄返還交渉の際に結ばれた密約、非核三原則の運用をめぐる米国の核兵器の持ち込みを容認していたこと、朝鮮半島有事の際に米軍の出動を認めていたこと等々、これまで指摘されてきたことが実際に存在していたことを情報開示した。
 
さらに鉄のトライアングル(政・官・財の癒着政治)を見直すことをめざし、行政刷新担当の下で2010年10月から事業仕分けが行われた。もちろん、その手法には費用対効果という物差しで政策を判断する問題点もあったが、法人や独立行政法人を使って事業を継続し、しかも天下り官僚にとっての利権や既得権となっている実態を明らかにした。だが行政刷新会議は、本来、行政組織全体の改革のあり方を議論する場であったが、無駄削減だけにスポットが当たったきらいがある。しかも三弾にわたって行われた事業仕分けは、対象とした独立行政法人(104)のごく一部であり、特別会計の中身にはほとんど手をつけられないで終わった。 また、年末の予算編成において、「マニフェスト」で約束した揮発油税の暫定税率の廃止は、財政難を理由に棚上げされ、高速道路の無料化も限定的なものになったこともある。これら財源問題は自民党、公明党が批判するように「マニフェストは、選挙目当てのバラマキで十分な検討が欠けていた」ことは否定できない側面もあるが、果たしてそうだろうか。国家財政が危機的状況にある中で、予算全体の歳入と歳出を見直し、優先順位をつけて無駄と思われる歳出は、大胆に見直し、削減することは必要な選択である。財源問題で言えば、増税の前に着手することは、法人税をはじめとする大企業優遇税制、租税特別措置、さらに高額所得者の税率見直し、応能負担に基づく累進課税の強化など、不公平税制にもっと切り込めば相当な財源が捻出されるはずである。「マニフェスト」の実効で指摘されるべきことは、この面での中途半端さである。
 
鳩山政権にとって致命的なできごとは、政治資金をめぐる疑惑であった。鳩山首相が母親から総額11億円以上の資金援助を受けていたことが発覚し、しかもそれを政治資金収支報告書に記載せず、架空名義による個人献金として処理されていたことなどは許し難いことである。また、小沢の資金問題についても、法律通り処理したといくら弁明しても、巨額な資金の出し入れは余りにも不透明で、国民的感覚からかけ離れており、政権トップ2人に対する国民の強い批判と不信を招くことになった。
 
外交面ではアメリカ海兵隊の普天間基地の移設問題がある。これは2006年に自民党政権下で、米軍再編の一環として普天間基地を廃止し、名護市辺野古沖に新たな海兵隊基地を建設することで合意していたものである。鳩山首相は、一時は自立した外交や、県外移設を探る動きを検討するが、閣内不一致などで混乱し、最終的には「安保抑止力の必要性」を唱え、自民党政権下で合意した現状案を閣議決定することになった。これに反発した社民党は2010年5月30日に連立政権から離脱することになる。
 
鳩山首相はみずからの政治資金問題でつまずき、さらに普天間基地問題で混乱の責任を取って、6月2日に小沢幹事長ともども辞任の意向を表明することになった。民主党は6月4日に両院議員総会で代表選を行い菅が選出され、首相に就任した。鳩山首相は政権を担当することになって、1年足らずで菅内閣にバトンタッチすることになる。
 

■三・問われ続けた政権担当能力と政党政治

1.「マニフェスト」の見直しを進めた管首相

菅は代表選で「反小沢」を訴え、代表選後の党人事、閣僚人事でも、この姿勢を貫いた。小沢に距離を置く仙石由人を官房長官に、枝野を幹事長に登用し、政権運営、党運営を進める姿勢を鮮明にした。小沢排除の姿勢によって、発足した内閣支持率は急回復した。
 
菅首相は、その後「マニフェスト」にしばられない現実的な政権運営を目指すことを宣言するが、その端的なことは「社会保障・税一体改革」であり、消費税率引き上げであった。2010年6月17日の参院選公約発表の記者会見の場で、消費税については自民党の引き上げ率10%を参考にすると言及するなど、自民党に接近し、違いはなくなった。
 
だが民主党内は増税に反対する意見が強く、これが小沢グループ対反小沢の対立構図を増長させた。こうした批判もあってか、菅首相は7月11日の参院選の最中に、消費税引き上げに関連した低所得者対策で、場当たり的でしかも無知をさらけ出す発言を繰り返し、かえって国民の不信感を募らせた。このことで参院選結果は、民主党は改選議席の54議席を下回って41議席に激減し、自民党は改選議席38議席から51議席と躍進し、改選第一党となった。与党が参議院の過半数を割り込んだことで、衆参の多数が異なる「ねじれ国会」が生れることになったのである。
 
こうした参院選の敗北と支持率の低下(内閣発足時から1カ月余りで26ポイントも急落し、38%となり、不支持率は52%)は、菅内閣の政権基盤と求心力を著しく低下させ、小沢グループの菅批判は強まった。
 
また、参院選の敗北は、民主党の看板政策に大きな影響を及ぼした。その幾つかを挙げると、政治主導の目玉の1つであった国家戦略室が首相直属の助言機関へ「格下げ」された。戦略室の格下げにとどまらず2011年度予算編成の編成作業からも戦略室は外された。これに代わって、仙石官房長官に予算編成の基本方針に関する権限を集中させ、これと共に鳩山内閣で廃止された政策調査会の見直し、さらに自民党政権下で財務省が策定していた概算要求基準を1年あまりで復活させた。これに小沢グループは「財務省主義、官僚主導に後戻りしている」と厳しく批判した。
 
9月の代表選まで1カ月余り、菅と小沢グループの綱引きは激しさを増すことになる。9月14日の代表選は、8年ぶりに行われた党員・サポータが参加して行われたが、党員・サポータで圧倒的に票を集めた菅首相が小沢を破って勝利する。代表選後、行われた内閣改造の布陣では、「閣僚ゼロ」の小沢グループを除いて、他は「グループ均衡」に配慮したものとなった。党役員人事では、枝野の後任に外相続投を希望していた岡田を幹事長に登用した。
 
内閣改造後の内閣支持率は66%と大きく上昇し、これに意を強くした菅首相は政務三役による「政治主導」を改めて、官僚を使いこなすように指示するなど、「脱官僚依存」の看板を降した。一方で小沢幹事長時代に、「族議員」を解消することを理由に、陳情は「幹事長室」で一元的に処理する仕組みにしたが、これをやめて「陳情要請対応本部」を設置した。これらは党運営に対する小沢の影響力を排除することに狙いがあったことは明らかである。
 
一方、民主党が代表選一色になっていたこの時期に、日本外交の足元を揺るがす大事件が発生した。9月7日、東シナ海の尖閣諸島周辺の領海内で違法に操業していた中国のトロール漁船が哨戒中の海上保安庁の巡視船と衝突した。公務執行妨害容疑で船長らを逮捕するが、中国の反発で無条件釈放となった。その後、海上保安庁が撮影した衝突のビデオが流出するなど危機管理が政治問題になるなど、政府の不手際が厳しく批判されることになる。さらに11月1日にロシア大統領のメドベージェフが国後島を訪問したことをめぐって、あらためて北方領土問題が浮上するなど、難しい外交手腕が問われることになった。
 
11月23日、今度は北朝鮮で大事件が発生した。北朝鮮軍は黄海上の南北軍事境界線にあたる北方限界線の南約3キロにある韓国北西部・延秤島に向けて数十発の砲撃を行った。韓国軍も応戦し、交戦状態が約50分続いた。こうした有事に対する危機管理のあり方で野党は激しく政府を追及した。
 
菅内閣は、内政でも混迷が続いた。2011年10月4日、東京第5検察審議会は2度目の小沢「起訴決議」を決めた。強制起訴が決まった小沢問題を民主党としてどう扱うか、党執行部の判断が注目された。自民党、公明党など野党が求める国会招致に対しては、衆院政治倫理審査会出席で対応することを伝えるが野党はこれを拒否し、偽証罪に問うことができる証人喚問を要求して譲らなかった。
 

2.党内の対立激化で政権基盤と求心力の低下

「ねじれ国会」の中で大臣の無責任発言も後を絶たず、11月14日、柳田法相の「法相は2つ(国会答弁)覚えておけばよい」という発言である。自民党は国会で乱暴な答弁を重ねていた仙石(自衛隊は「暴力装置」、国会内で写真取材を「盗撮」と表現など)を問題にし、柳田法相の罷免を求め「応じない場合は、問責決議案を出す」と迫った。問責決議案が出れば、補正予算成立の遅れは確実で、22日に菅首相は法相を更迭した。
 
「法相更迭」でも野党の攻勢はおさまらず、自民党は仙石、馬渕澄夫国土交通大臣への問責決議案を提出する構えを強めたが、自民、公明、民主党の国対委員長の協議で、仙石らの問責決議案提出は補正予算案採決以降に先送りすることで合意し、結局補正予算は憲法の衆議院優越規定に基づき、26日に成立した。仙石、馬渕国土交通相の問責決議案は予算成立後、社民党を除く野党の賛成多数で参議院で可決された。
 
一方、小沢の「金と政治」の問題は、菅執行部と小沢との綱引きが続き、2011年1月12日の両院議員総会は、この問題で激しい応酬となったが、その後、2月に政倫審出席に応じない小沢を党員資格停止処分にした。
 
1月13日の民主党大会で、岡田幹事長は「マニフェストの見直しに向けた作業を夏頃までに終えたい」と報告し、了承された。さらにその後の通常国会でも菅首相は、「財源について、一部過大に見積もっていたところもある」と認め、「マニフェスト」政治を転換する姿勢を鮮明にした。
 
菅首相は通常国会に向けて1月14日、内閣改造に踏み切り、枝野、江田五月、中野寛成の3人を入閣させ、それぞれ官房長官、法相、国家公安委員長に充てた。たちあがれ日本を離党した与謝野馨を経済財政相に起用し、参議院で問責決議が可決されていた仙石、馬渕は交代させた。
 
1月24日、菅政権の命運をかけた第177通常国会が召集されるが、最大の課題は税制改正関連法案など2011年度予算案と関連法案の行方であった。予算自体は憲法の規定により、野党が参議院で否決しても自然成立するが、関連法案はそうはいかない。関連法案のうち赤字国債を発行するための「特例公債法案」が年度内に成立しなければ、政府は約38兆円に上る借金ができなくなる。2011年度の子ども手当法案も、年度内に成立しなければ4月から恒久法の児童手当法が復活することになる。
 
こうした緊迫した国会情勢が続く中で、3月11日に東日本大震災、福島第1原発事故が発生した。これで国会は一時休戦となるが、大震災と原発事故の復旧、復興政策、そして財源をめぐって、また、現在休止中の原発の再稼働問題、将来の原発に代わるエネルギー政策をめぐって与野党間で激しい論争、攻防が続くことになる。
 
さらに消費増税や「マニフェスト」の見直しなどに、小沢グループを中心に反対意見が渦巻き、党としての意思決定がままならず、政権は失速していった。どれ1つをとっても菅首相の指導力は発揮できずに、唐突に打ち上げられる個人的な思いつき発言などで、有効で緊急を要する対応ができずに、政府内も混乱が続いた。こうして菅首相の更迭が、閣僚、そして党執行部からも噴出し、野党から衆議院で提出される内閣不信任決議案に同調する動きが公然化する。対立が最も先鋭化したのは6月の野党提出の内閣不信任案に小沢グループが賛成する構えをみせた時である。
 
6月2日の民主党両院代議士会で菅首相が、「しかるべき時期に若い人に譲る」ことを表明したことで、野党が提出した内閣不信任決議案は、反対多数で否決された。だが事実上、退陣を表明した菅首相は時期を明らかにせず、退陣三条件(第二次補正予算案、再生可能エネルギー特別措置法案、特例公債法案の成立)が確かなものにならない限り、続投する意向を示した。
 
一方、自民党、公明党は特例公債法案賛成の条件として、民主党の公約した「4K」の撤回を条件として突きつけてきた。自民党、公明党、民主党の三党幹事長協議で、民主党は両党が求める条件をほぼ丸呑みすることで、菅首相が求める3つの法案は8月26日に成立することになった。
 
これで民主党の「マニフェスト」は、事実上、放棄されることになり、同時に菅首相は1年3カ月で退陣することになった。民主党は後継代表選を8月29日に行い、野田財務相が海江田、前原を破って代表に選出され、8月30日に首相に就任した。
 

3.問われる政策に貫く理念と政治統治能力

民主党結党から政権を担うことになったこの15年間の民主党政治の足跡を辿ってきたが、この中からいくつかの問題が浮かび上がってくる。民主党政権の2年間で首相は3人も変わることになる。それがいけないのではなく、その理由が問題なのである。
 
民主党は政策的には比較的良いものがあったが、鳩山、菅首相に典型的にみられたように、両首相とも大きな組織を切り回した経験がなく、政権のもろさを国民にさらけ出した。とりわけ政権を担っている政権党のあるべき姿は、本来、全党で首相を支えるべきなのに、その力学が働かない。また、菅首相自身が小沢グループの排除に動き、代表選で約束した「ノーサイド」とは全く逆の党運営を行ったことで党としての統一と団結を壊してしまった。
 
政策をそっち除けに、党内抗争に終始し、党内最大勢力を率いる小沢元代表との抗争は、政権基盤を弱め官僚を掌握するのに必要な求心力を失うという結果を生んでしまった。その揚げ句に「マニフェスト」を次から次と修正し、撤回してしまうことは、国民から見れば約束違反であり、これでは全く信用されない。
 
民主党政治の2年間は何であったのか、あらためて問われている。この総括を抜きにしては、自民党政治とどこが違うのか、国民にはわからないばかりか、これでは国民の政治不信を増長させかねない。
 
民主党は政権交代で政権を担うことになったものの、民主党の基本理念、国家観やめざすべき社会像、歴史観など基本的な価値観が定まっておらず、バラバラの状態が放置されたままである。民主党政治の混乱は、「選挙互助会」からの脱皮ができていない弱さである。政党としての綱領をいまだに持っていないことは致命的でさえある。野党時代は「政権交代」という一致点で結束できていたが、政権を担うことになって、この不充分さが露呈してしまった。
 
政策は政治家個人の思いつき発言で党内は混乱し、これが野党、国民から批判されると、首相自身が簡単に修正することが、しばしばであった。
 
その一方で、自民党政権下では、官僚、族議員、業界団体という閉じられた空間で政策が議論されたが、民主党政権では議論が表に出て、国民の目に触れるようになったことは良いことである。これは一歩前進であるが、これまで舞台裏で行われていた政治家の調整が表部隊に出されたのに、それに見合う政治力や仕組みが準備されていない。それがなければ国民には党内の争いとしてしか映らず、ドタバタ劇をみせつけられるという批判になってしまう。
 
「ねじれ国会」が民主党の「マニフェスト」撤回の理由にされているが、これは理由にはならない。欧米諸国では、「ねじれ」は普通の政治状態であり、各国とも議会の中で合意点を探り克服していることに学ばなければならない。
 
その際に問われることは、連合運動を中心に広範な労働者、国民的な大衆運動の力を背景に、政権政策の実現を図っていくことが必要であるが、この姿勢にも欠けていた。
 
この面で管首相の後継である野田首相の指導力が問われるが、就任後の野田首相の言動は、自衛隊政策、エネルギー政策、TPP(環太平洋経済連携協定)参加検討、さらに大衆増税路線などにみられるように、独占資本の要求と巨大なメディアの政治キャンペーンに翻弄され、保守政治への回帰とも判断されかねない危うさがある。
 
民主党は社民リベラル勢力も一部含むが、基本的には国会議員の構成から見ると、「自民党政治システム」とは違う「新しい保守」に近い政党である。だが少なくとも民主党には「国民生活が第一」のスローガンがあったし、外交をとっても日米対等外交という旧自民党政権とは違う姿勢があった。また、自民党時代のサプライサイド重視の経済政策の転換にむけて、「官僚依存政治からの脱却」を主張し、「政治主導」を公約し、国民の大きな支持があったはずである。この理念は堅持しなければ、民主党でなければならないという選択肢を国民に示すことはできない。
 
同時に、民主党が社会民主主義的に純化する政党になるとは考え難い。したがって民主党がこれからも社民的な政策と親和的である保証はない。一方で国政選挙で社民党、共産党は退潮し、社民勢力そのものが今後、政治の場で拡大していくことができるかどうかも大きな課題である。
 
日本の政治は、民主党、自民党の二大政党の力のせめぎ合いで、国民の一票で政権が交代することが続くものと考えられる。その際に「第三極」、とりわけ社会民主主義を党是とする社民党を中心にした政治勢力が、民主党の保守化傾向に歯止めをかける役割を大衆運動を通じて果たすことができるように伸長することが強く求められている。
 
当面の日本政治の方向は、政治家も政党も、そして労働組合も、さらに経験を重ねて、政治的には反自民、反独占、そして政策的には、国民生活向上、脱原発、護憲を柱とした民主主義的政策を軸に戦線を統一して、政党政治に収斂、成就していく努力が大きな課題になっている。
 

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