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●2008年12月号
■民意喪失の日本政治を考える
  ―――「政権交代」「消費税」選挙を前に
  帝京大学教授・元朝日新聞政治部長 羽原 清雅
   
 

 小泉政権以来、3政権3年余にわたって国民の選択を問うていない自民・公明の連立政権だが、麻生政権もまた「民意」を問わないままの政権運営に入った。衆院議員の任期は2009年9月。年明けの選挙になるのか、さらに先送りされるのか。だが、いずれにせよ、有権者の意思を確認し、政権交代を含む「変動」の時期を迎えるのはそう遠いことではない。
 
 麻生首相は国会の指名直前までは冒頭解散を目指していたことは、自らの「文藝春秋」寄稿で明らかだが、自民党独自の世論調査が惨敗との見通しを立てたことで解散をシュリンク、たまたま米国の金融危機・経済不安に見舞われたことで、選挙先送りの口実を得ることが出来た。
 
 今後は、2009年度の予算案編成に取り組み、財政面から利権がらみの各界を動員して票の掘り起こしにかかるのだろうが、そのような小手先で政権存続ができるだろうか。一方、民主党も政権交代の好機と踏むが、国会審議の姿勢や人気度からすると、そう甘い状況とは思われない。
 
 さらに、麻生首相は3年後の消費税引上げを打ち出したことで、焦点は「消費税」可否の選挙にもなった。生活を脅かされ、政治不信の増す中で消費税を許容するのか、あるいは年金、医療費改革などを含む財政建て直しのための増税路線を容認するのか、ますます衆院選の持つ意味は拡大した。多くの問題を抱えたいま、衆院選を迎える政治状況の内情を点検したい。


■ 身内も離れる自公政権

 自由民主党が保守合同によって生れたのは1955(昭和30)年。結党53年間のうち、1993年8月から96年1月までの2年半を除き、ずっと単独で政権を握ってきた。一時は新自由クラブと手を組んだこともあったが、昨今は公明党との連立がなければ政権の維持は不可能になっている。
 
 この事態は、自民党を長く支持してきた保守層が、つまり本来の支持勢力までが「自民離れ」を起こし、この政権政党に疑念を抱くなど、批判的に見ていることを意味するものだ。長期政権への「厭き」もあろうが、大きな原因は国民の意識から遠ざかった党体質にあるだろう。国民の目線で政治を行うという基本を忘れてしまっている。
 
 そのひとつは、モラル・ハザードである。
 それは、政治資金の不正使用や資金調達上の腐敗、多くの暴言などに見られる。近年の農水閣僚だけを取り上げても、大島理森(秘書の金銭授受、2003)、松岡利勝(自殺=カネの不正使用と緑資源機構問題、2007)、赤城徳彦(政治資金不適切処理、同)、遠藤武彦(補助金の不正受給、同)、太田誠一(汚染米不正転売問題、同)の事例が挙げられる。国民の1票を委託されて国会に出ているという自覚がない。驕りと私腹を肥やすことが優先され、なにが悪かの認識がマヒしている。また、中山国土交通相の放言、防衛省航空幕僚長の歴史認識を巡る暴言なども、精神的汚染であり、国民の常識に対決する非常識、といえよう。
 
 そればかりではない。
 安倍首相は持病という問題を抱えながら、隠すようにして就任。あげくは、参院選の敗北責任を負って辞任すべきところ、一方的に宣言して続投し、施政方針演説を明らかにしながら野党の代表質問直前に政権投げ出しを表明した。なんという為政者であろうか。そこには、国民に対する重い意識がない。政権を担当する覚悟、決意がないし、その情熱や意欲を培ってきた姿もない。長期政権の疲弊振りを示した典型といっていいだろう。 また、続く福田首相も、自ら首相の座を買って出ながらわずか1年で放擲した。従来の対米中心の外交からアジアに目を向けようとした政策や、生活者に目を据えた消費者行政などには国民の期待もあったはずだが、民主党と対決する選挙に自信をなくしたか、「選挙のカオ」のすげ替えを策して、突然に辞任を表明した。「選挙のカオ」戦略はプロにはわかっても、国民から見れば背信にほかならない。
 この程度の政治でいいのか、と思わざるをえない。
 
 原則的なことだが、民主主義は国民が主役で、政治家には一票を投じることで民意の代行を託し、また官僚・公務員には税金を納めることでバランスの取れた行政を依頼している。そのシステムが成り立っているのは、まず前提として国民との信頼関係があるからである。いまさらではあるが、その前提がなければ、税金を納めたくなくなるし、政治家への一票による参政権も保証されないことになる。だから、不正腐敗が蔓延し、また全体状況を認識していない言動が繰り返えされれば、国民は民主主義というシステムに安住できない、と思い、社会は不信に包まれて崩壊の方向に進みかねない。
 
 選ばれた政治家が国民に信頼されるとすれば、第一に自らがルールをきちんと守り、責任に対して忠実でなければならない。首相の政権投げ出しや、政治家の腐敗や妄言が「またか」という空気を拡げた結果に、有権者たちはあきれたのか、あきらめたのか、最近では怒りや憤りをおもてに表わすことが少なくなっている。しかし、いくらおとなしいといっても、潜在した怒りが結集したときには、民主主義の危機をも招きかねない。戦前の日本が、戦争政策を進めやすくした根底には、軍部の跳梁を許してしまう政界や官僚、財界などの堕落、腐敗と無責任があったことを忘れてはなるまい。状況は異なるものの、こうした史実に学ばなければならないような兆候が感じられる昨今である。
 
 今日の問題は、現政権が長期化していることも一因になっている。政権にアグラをかき、不正腐敗になじみ、かつ国民の内なる怒りをさしたることとも感じなくなった議員体質が根底にある。


■ 官僚たちの地盤沈下

 次に、与党政治家がコントロールすべき官僚群の頽廃ぶりである。
年金、医療費をめぐる着服・架空処理・未払いといった行政の混乱、あるいは汚染米の処理のみならず、各省の居酒屋タクシー使用や諸経費をめぐる大乱費など、かつてのリクルート事件やノーパンシャブシャブ汚染などを反省するどころか、むしろ腐敗は拡散する状況にある。
 
 かつては、批判はいろいろあっても官僚群の誇りには一目置き、国民に不満はあっても納得せざるを得ない安定性、公平性が受け入れられていた。政界への不信はあっても、行政については一応の信頼が寄せられ、我慢の余地を見せていた。だが、いまや、それが地に堕ちて、恥辱をわきまえなくなった。かつての「誇り」は「驕り」に変わった。
 
 本来、与党政治家はその模範のもと、官僚に対してコントロールすべき立場にある。しかし、まず政治家の劣化がひどくなった。ついで、官僚の悪化である。政・官ともに不正腐敗まみれになると、統治そのものに疑惑がわいてくる。怒りを表面化させない国民の風潮が、そうした不正腐敗を甘やかしているといってもいいだろう。いや、そればかりではない。たとえば、予算案の審議に比べると、年度終了後の決算については国会審議も緩やかだし、メディアの取り上げ方も弱い。たまたま表面化した予算の不当使用などについても、返金などで済まされ、当該官庁の責任はほとんど問われていない。
 
 会計検査院の2007年度の決算検査報告によると、不正経理や税金のムダ遣いは過去最多の981件、1253億円にのぼっているが、この責任は誰がとるのだろうか。
 
 こうした不始末やムダ遣いにさしたる痛みも感じることなく、翌年度に踏襲されていく。甘やかされ、国民の血税の重さを感じていない。自覚を失った統治部分の腐敗や低劣化は構造化して、変えようもなく放置されてしまう。


■ 弱い層にさらなる打撃

 第3に、政策面である。
 政治の根幹は人々の生命と財産を守るところにある。全体の水準は確保されているとしても、いわゆる弱者に対する対応に問題がある。
 
 ここで、少しわき道に入りたい。小泉政治は、現在の衆院での優位を築いて、その後政権を放り出した安倍、福田2人の首相を生み出すことになった。小泉改革に必要性を認めるとすれば、それは長期政権下でマンネリ化した行政から、マイナス面や非効率面を取り除くことにあっただろう。しかし、改革を進める際には、改革される部分のひずみや犠牲を、どのように手当てしていくか、事前にその点への配慮がなければならない。改革には必ずマイナスを負う部分が出てくる以上、為政者はそこに読みと対応策がなければならない。改革によるダメージを受けやすいのは、どうしても弱い面を持った部分になるのだから、改革に取り組む以上、一方でいわゆる弱者対策も盛り込まれなければ最初から「失政」といわざるをえないのだ。
 
 そこで、配慮不足の小泉改革は、多方面で「格差」問題を拡大させた。たとえば、増収とコストダウンばかりを念頭に置いたことで、非正規社員の雇用に切り換える企業が増え、そこに失業者や生活困窮者を続出させた。政策の主眼が国民生活になく、生産優先、企業優遇の措置はバランスを欠きすぎたのだ。大企業減税にしても、狙いは企業の繁栄は社員や社会への配分を増大させる、ということだが、仮にそうするなら、職場の確保や最低生活の保障が出来ていなければならない。
 
 小泉政治は、1980年代の英国サッチャー、米国レーガンらが志向した市場原理主義、いわば経済は市場、民間に任せ、国家は小さい政府のもとで安全保障や治安などの機能を担当すればいい、民間への介入は極力避けよう、という考え方を踏襲している。すでに米英では、そうした統治のあり方の問題点が指摘されていたにも拘らず、日本ではそうした反省もないままに、郵政選挙において大歓迎の民意を示したのだ。
 
 その民意の問い方だが、小泉改革はワンフレーズ・ポリティクスという、二者択一・善か悪か・白か黒か、といった単純なアピールで選択を迫ったのだ。テレビというメディアは、そうした議論を深めずに結論を出す単純選択の手法を受け入れやすく、小泉路線を大いにあおる結果になった。しかも、郵政選挙は「郵政改革 是か非か」というシングルイシューを掲げただけの選挙を打って、公明党とともに3分の2の議席を獲得し、その後は政策すべてについて信任を得たかのように数の政治を推し進めた。
 
 だます政権も問題だが、だまされる国民も単純に過ぎた、といわざるを得ない。


■ 消費税引き上げの詐術

 ここで、政策問題に戻ろう。麻生首相は10月末、民意を問う衆院選を先送りして、米国に端を発した金融危機・景気不振の対応策として追加経済対策を発表した。身近なサービスとしては、(1)1世帯4人で6万円程度を一律給付する (2)土日曜と祝日の高速道路料金を最高1000円とする(3)住宅ローンの税額控除を最大600万円に引上げる、などである。これらは、野党などが「ばらまき」「有権者から票を買う措置だ」などと批判するところだ。だが、そんな程度のことではない。「格差」が問題になっているときに、その是正に取り組まずに、一律に定額のカネを給付し、格差をそのまま温存する政治でいいのか。給付金制度自体の是非もあるが、実施するならせめて高額所得者を除き、全体の出費を削減するか、低所得者に給付を増やすべきなのだ。この手法は、景気を刺激することになるのか、あるいは財源をどう調達するのか、といった問題もある。高速道路料金にしても、ETC(ノンストップ自動料金収受システム)装着車でなければ、恩恵は受けられない。住宅減税も八万戸の着工を押し上げるというが、そこまでの成果があがるかどうか。こうした問題を抱えている。
 
 これらの問題はむしろ小さい。この経済対策にはほかに、株式売却益や配当にかかる税率の引き下げ、法人税率の税率軽減といった富裕層への優遇措置も盛り込んでいる。戦前、中国などから人権を無視したような労働力導入策をとって炭鉱財閥を築いた麻生一族だが、企業優先の発想を変えていない。一般庶民は二の次、とも受け取られる麻生首相の姿勢がうかがわれる。
 
 それ以上に問題なのは、消費税引き上げの論拠だ。場合によっては、その必要は出てくるかもしれないが、その前になすべきことを放置している。仮に現行の5%を引上げるなら、低所得者の負担を減らすよう食料品など生活必需品を消費税の対象から除外する措置などに言及すべきだった。また、年々必要額の増える年金、医療制度などに引上げ消費税分を充当するのであれば、不都合の多いこれらの現行制度をどのように変え、どんな国民への給付・処遇を考えるのか、せめて概略を示さなければならない。それ以上に必要なのは、増税を打ち出すなら、政府の税金の使い方についてまず反省と改革の成果を示すべきなのだ。前述したように、民意はあきらかに政治家や官僚群の税金の不正使用・ムダ遣い・いい加減・放漫などに不信と疑惑を高めている。こうしたなかで、「足りないのだから、国民が負担するのは当たり前」ということでは納得するはずがない。
 
 赤字国債に大きく依存すると、その返済と利息に追われ、予算規模こそ大きくても実質的につかえる額はかなり小さくなる。また、将来は少子高齢化のなかで、借金だけが大きく残され、その返済に追われて新たな仕事はほとんどできないようになる。そんなことでいいのか。やはり、将来の負担を極力減らすように政策に取り組まなければならない。確かに、金融危機の中で、当面の資金繰りは必要だろう。しかし、そこに甘えはないか。その場しのぎの政策の取り組みが多すぎるように思われてならない。
 
 衆院選では、消費税引き上げの是非以前の問題として、なすべきことをしない政治のあり方について問うていくべきである。


■ 民主党政権なのか

 これまで、政権を握る自民党について触れてきた。では、一方の与党公明党はどうか。
 
 公明党は、自民党内閣を支えるだけでなく、各小選挙区で自民党候補に票を譲ることで多数議席をサポートしてきた。連立与党である以上、主力党への協力は必要だが、他方ではキャスティングボードを活用して多数与党をチェックし、自党の政策を反映させるべく調整を迫らなければならない。閣僚ポストをもらって、なんでも追従、では無意味である。主体的な主張や反発を示すことは、「連立の不和」としてメディアの論議を呼ぼうが、長いスタンスで見れば、それでよい。つまり、強い主張をし、その実現を図ることが、連立党としての存在感を示すことになるのだ。
 
 しかし、公明党の場合、やや追従的なイメージが強かった。海上自衛隊のインド洋派遣を延長することになる新テロ特措法案に反対の意向がありながら、最後は同調した。衆院解散の早期実施についても、最初こそ強気に臨んだものの、結果的には先送りを飲んでいる。小党はもっと主体性を誇示しなければならない。
 
 では、野党第一党の民主党は、政権を担当しうるだろうか。
 
 党内の底流には、結党に至る寄り合い所帯の難しさがあり、そのために対立する政策論議を詰めきらないできた。政権の交代間近と思わせ、小沢一郎のもとの結束を見せることで、党内対立と紛糾を避けてきたのだ。政権をとったとすると、自民党時代の政府の方針との整合性が問題になる。また、野党時代の公約や主張との食い違いが当然出てくるだろうが、こうした点をどう調整し、説明するのか。
 
 さらに、野党となった自民党が容易に協力するとは考えられず、自民党がこれまでの民主党的な抵抗姿勢で臨んだら、圧倒的多数の議席を確保しない限り、従来の「ねじれ国会」の逆の立場での苦労を背負わなければなるまい。国会の審議がまたも空転となれば、民主党への期待は急速に縮むだろう。徹底抗戦するはずだった新テロ特措法案について、解散が目の前に見えてくるとにわかに審議促進に態度を変える、といった手口は通用しない。
 
 少数議席にとどまってほかの勢力と連立する状況なら、自民党時代の政策などはそう簡単には変えられまい。むしろ、保守志向の強い党内は、自民党時代の方向にシフトしかねないのではないか。そうなれば、国民が託した期待を裏切ることにもなる。
 
 このように、民主党の政権掌握にも問題は多く、彼らのいうように政権交代がすぐにも世の中をバラ色に塗り替えるようなことにはならない。


■ 遠回りでも大きな変化を

 以上のように、衆院選が変化をもたらすことは事実だが、夢を抱くほどには甘くはない。むしろ迂遠であっても、時間がかかっても、民主主義の原点を重視しながら、じっくりと有権者の意識を啓発したほうがいい。
 
 社会党時代に、若い世代が党内改革を目指したことがある。機関紙を拡張することによってシンパを広げつつ、党の財政基盤を作り直そうとして、一定の成果をあげたことがある。だが、多面的多層的な性格を持つ党内にあって、党運営のむりな一元化を急ぎ、実態の複雑さを軽視し、数の力に頼って急激な変化を求めた結果、党内外の反発を招いて、結局は育ちつつあった良い芽までも摘んでしまうことになった。この挫折を機に、社会党全体が混乱し、民主党と社民党に事実上分裂、小選挙区制の弊害もあって社民党は息も絶え絶えの勢力に落ち、また民主党に走った面々は同党の保守部分に取り込まれて初心から遠のいていった。
 
 この教訓を、いまの社民党が汲み取れるかどうか、だ。この党にはムリだとしても、自民、あるいは民主の政権とは別の視点で政治を見つめる国民層を結集できれば、緊張感が増大して、国民の期待により近い政治状況が生れるだろう。
 
 かつての革新勢力はたしかに雲散霧消し、また戦後の一時代を築いた人々は高齢化したり消えていった。だが、議員たちこそ変化してひと握りになったが、有権者の中には現状にあきたりず、現行憲法の理念を実践して、平和を求める人々がいなくなったわけではない。社会各層に散って、結集の機会を待っているにちがいない。
 
 若い人たちがじっくりと再生の機会をつくれるかどうか、である。その目標と論理をつくり、一人ひとりの心をつかむ着実な活動を再構築できないものであろうか。
 
 では、この衆院選を機に、どのような取り組みが必要だろうか。
 
《1》まずなんといっても、現行の小選挙区制の見直しと改革である。容易ではない課題ながら、そのマイナス面が次第に目に付いてきている以上、惰性で続けるべきではなく、時間がかかっても世論を高めるべきだろう。この小選挙区制度は次の衆院選で5回目になり、再検討の時期に来ている。まずはそのアピールがほしい。
 
 小選挙区制度の問題点の第1は、社会全体にさまざまな意見、価値観があり、2大政党のいずれかを選ぶような、はじめから狭い選択肢しか提供しない政治環境でいいのか、という点である。人為的な制度で、多様な考え方を制約していいのか、という基本を問い直すべきである。
 
第2は、「死に票」が極めて多いことだ。極端にいえば、候補者が2人出ると、1区1人当選の制度なので、仮に49%とっても、一方が51%をとれば落選することになり、ほぼ半数の有権者の意向は国会に反映しないことになる。当選者は1人なので、小さい党ではなかなか議席はとれない。比例制のほうで小党を救済するというが、小選挙区定数300に対して、比例区は180なので、有権者の声を公平に生かすわけにはいかない制度なのだ。
 
 第3は、この制度は2大政党を作り、政権の安定を図りつつ、政権交代を可能にする狙いから採用された。2大政党現出・政権安定というが、現実はどうか。この15年間、一党による政権はなく、連立が常態化している。そうであれば、もともと多数の政党が国会に登場して、連立を組んだほうがよく、それらの政党間で調整しつつ妥協や修正により、政策や課題に取り組めばいい。また、政局の安定というが、実態は2大政党の対立によって、混迷を重ねているではないか。「ねじれ国会」の実態は、かつて経験した与野党伯仲の教訓には学んでいない。守る自民党も公明党しか相手とせず、野党の民主党も目前の利を追うばかりで、国民の信頼をとり逃がしている。だから、「大連立」といった非論理で、悪質な動きが浮上するのだ。
 
 ほかにも、当選しやすい世襲議員の増大、無能力でも地域での知名度を持てば当選する地方議員やタレント系候補者の台頭、政権を追う野党が現実主義に走り、与党の政策に接近することで政治を単一化してしまうリスク、などの問題点が挙げられる。
 
《1》政党の改革が必要である。いろいろな考え方や立場がある以上、すべての一致を強制するような政党ルールでいいのか。大半の問題については、党内の一致を求めてもいいが、世論が分かれ、まとめにくいようなテーマについては、個々の議員の判断に任せていいのではないか。アメリカでも、金融強化法案の賛否で与党共和党の意見は真っ二つに分かれ、その後修正によって成立に至った。議員に責任を持たせるためにも、党議拘束は緩めた方がいい。
 
《1》有権者自身もまた、変わる必要がある。支持政党のアピールをそのまま信じたりしないで、比較検討して、自分なりの考え方を持つべきだ。テレビの影響が大きい今、政治がらみの番組は疑いつつ見た方がいい。受け身のままに視聴していると、特定の考え方に偏りかねないし、自分の意見や判断が生れてこない。また、ワンフレーズで政治選択を迫る手法に惑わされないようにしたい。本来、物事に対して二者択一を求めるのは単純すぎる。是々非々で問題の所在を探ったうえで、自分の意見を決めるべきだろう。
 
《1》個人と社会の関係についても、再考したい。個人がその能力を発揮して生きていくためには、自己本位だけではやっていけない。その一方で、個性や自己主張がなくては社会は成り立たない。社会の支えがあってこそ自分の存在に光が当ることをもっと自覚する必要がある。昨今は、相手の存在を無視し、自分がよければという言動が目立ち、他人の置かれた立場や状況への配慮を欠く傾向が強い。権利と義務、自由と規律・秩序のバランスがとれて、マナーやルールが日常に生かされるようでないと、社会の発展は望めない。議論の段階では自分たちの主張を存分に展開すべきだが、そのプロセスを通じて譲歩、妥協、修正などの打開の姿勢が必要になる。ここでも、二者択一の手法は好ましくない。
 
《1》昨今のように課題が山積し、複雑に絡み合った状況では、その打開には時間がかかる。責任をとっての辞任などは当然だが、事態をもてあました首相が辞めて逃げ出せばいいというものではない。問題点の所在を突き止め、打開のための意見を多方面から出し合い、いくつかの打開案を整理してまとめ上げ、さらに実行に移していく、となれば、ある程度の時間のかかることは我慢しなければ、妥当な解決は望めないだろう。引き延ばしや無責任な放置は別として、真摯に対応し、より多くの納得を得るには時間が必要だ。
 
 こうした見方は書生論のように思われるが、突き詰めると、前述のような対応が必要になる。変革のチャンスである国政選挙時にこそ、こうした原理原則について考えておきたい。民意自体の成長こそが、社会を動かしていく原動力になり、より望ましい社会に生きる最高の便法なのである。

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