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●2005年6月号
■ 被爆60年 核兵器廃絶に向けて 新たな力を
   (元衆議院議員 金子哲夫)

 
  今年も、間もなく暑い夏の8月6日を迎える。あれから60年。高齢化が進む被爆者は、「被爆60年はあっても、私たちに被爆70年はない」を合言葉に、節目の今年、核兵器廃絶に向け全力で取り組んでいる。しかし残念ながら、被爆者や広島の思いは無視されたかのごとく、世界の核状況は、核拡散の危険が強まっているように思えてならない。ここでは、広島から見た核問題について報告したい。

 ■ 核拡散防止条約(NPT)再検討会議への働きかけ
 
 今年は、5年ごとに開催される「核拡散防止条約(NPT)」再検討会議の年である。5月2日から27日までの会期で、ニューヨークの国連本部で開催されている(この原稿が読者に届くときにはすでに終了しているが)。
 
 ■ 心をうつ 被爆体験
 
 この再検討会議開幕に向け、日本からも広島、長崎の被爆者を含む平和団体、労組などの代表約1000人が、ニューヨークへ飛び立ち、現地で世界各地の市民やNGOの人々とともに、様々な行動を展開した。広島からも多くの被爆者が、体調を気遣いながら参加し、被爆体験を語る活動などを精力的に行ってきた。
 
 そのひとり坪井直広島県被団協理事長(日本被団協代表)は、「このまままだと歴史を繰り返す。歴史を繰り返さないためにもあのすごい体験をどうしても伝えたい」という強い思いで、点滴を打ちながらデモ行進や集会に参加した。そして証言では、自らが写った被爆直後の写真を示しながら、「核被害の最大の恐ろしさは、精神的肉体的な破壊が続くことです」と訴え続けた。国連本部のロビーで開催された原爆展の会場で坪井さんの話を聞いたある女性は「あなたが体験を話してくれなかったら、私は知らないままでした。本当にありがとう」と述べている。被爆60年、被爆の体験、実相を語ることは、今も大きな力となることを示しているではないか。
 
アメリカの核政策変更こそが、核廃絶への道 しかし今回の再検討会議は、5年前の会議に比べ、残念ながら多くを期待することは出来ないのではないかと危惧している。それは実質討議入りに必要な会議のテーマが決まったのが開幕から10日目ということに象徴されている。この原稿を書いているのは、まだ会期の途中なので、結論的なことを書くことは出来ない。
 
 ただいえることは、5年前のように、最終文書にそれまでの「究極的核廃絶」という言葉から大きく前進した「核兵器廃絶の明確な約束」というような大きな成果をあげることは出来ないのではないかと思う。
 
 それはテーマ設定の困難さに見られるように、「核不拡散体制の強化が最優先だ」と主張するアメリカと前回の会議で核保有国に「核兵器廃絶の明確な約束」を行わせ、今回も「核軍縮こそが核不拡散を確かなものにする」とし「核軍縮の停滞」に強い不満をもつ国々との対立が深刻だからである。こうした状況を作り出しているのは、イランや北朝鮮の核開発問題も大きな要因ではあるが、より大きな要因は、世界最大の核保有国であるアメリカ・ブッシュ政権が進める核政策にあると私は考えている。
 
 アメリカの核政策は今更いうまでもないが、例えば1996年9月24日に国連本部で署名が行われた包括的核実験禁止条約(CTBT)はいまだ未批准(この日は、広島平和公園慰霊碑前の核実験抗議の座り込み500回目でもあった)。それどころか、ネバダにある核実験場再開のための準備予算を計上し、さらには小型核兵器開発予算を計上(予算は否決されたが)するなど、世界の核軍縮、廃絶の声をあざ笑うかのように、核開発政策を強化し、核兵器の実戦使用に向けた準備を進めている。このようなアメリカ・ブッシュ大統領の核政策の変更なくしては、核軍縮や核拡散防止は進まないのは当然である。
 
 ■被爆国として日本政府は、もっと役割を果たせ
 
 このような状況を考えると、改めて被爆国日本政府が果たすべき役割が重要になっているといえる。再検討会議初日に演説した町村外務大臣は、「21世紀のための21の措置」を提案したといわれるが、核軍縮の問題では遠まわしに「すべての核保有国に対し、あらゆる種類の核兵器大幅削減を求める」としただけで、アメリカの核政策への具体的な指摘は行っていないのである。私もかつて国会で、小泉総理にこの問題を迫ったのだが、全く誠意のない回答であった。これでは世界各国が、日本を見る目は、「被爆国」であっても核廃絶の推進役とは見られず、むしろ「アメリカの核の傘に守られた国」と厳しいものとなるのも当然である。
 
 もう1つ日本の核政策の中で、国際的に問題となっているのが、青森県6ヶ所村で試験稼動を開始した「再処理」施設の問題である。確かに国内においては、原水禁国民会議や市民団体などが、反対運動を続けているが、どちらかといえば、核兵器開発問題というより、脱原発の運動としての側面が強調されている。しかし国際的には、核兵器開発に繋がる問題として、厳しく指摘する声が上がっている。イランの核問題は、まさにこの「再処理施設」が問題となっているのだから。

 ■被爆者援護法から取り残された課題
 
 被爆後60年過ぎても、被爆者問題は多くの課題を残している。国内の被爆者の問題として今一番取り上げられているのは、医療特別手当申請の際の「認定」問題がある。この問題も被爆者行政に関わる重要な問題であるが、今回は「被爆者援護法」に関わっての課題に絞って、提起してみたい。
 
 ご承知のように94年12月村山政権のとき、それまでの原爆二法(原爆医療法、原爆特別措置法)が、一本化され「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」いわゆる被爆者援護法(以下「援護法」という)が成立した。しかし、この援護法の成立によって被爆者問題がすべて解決したわけではない。今日なお引き継ぐ大きな2つの課題について考えてみたい。
 
 ■ 急がれる在外被爆者問題の解決
 
 その1つが、在外被爆者の問題である。ここ数年、相次ぐ在外被爆者裁判によって緩やかな歩みではあるが、前進している。ただ残念なことは、在外被爆者問題は、裁判を起こさなければ何も解決しないということではあるが。
 
 先日(5月10日)には、在アメリカ被爆者が訴えていた「海外からの各種手当ての申請却下取り消しを求める」裁判で、広島地裁は、「却下取り消し」を認め、国の在外被爆者対策を厳しく裁く判決を言い渡した。海外からの手当て申請の裁判で原告勝訴は3度目である。
 
 社民党広島県連合と広島市議団は、5月17日秋葉広島市長に「判決を受け入れ、控訴断念を」とする申し入れを行った。原稿締め切りの関係で、最終結論(控訴か控訴断念か)が出る前にこの原稿を書いているため、その結末を報告できないが、状況は厳しいようである。
 
 こうして次々と裁判で争われる在外被爆者問題の根本的な原因は、厚生労働省が、援護法成立後も「国内在住の被爆者のみを援護法の対象とする」という姿勢を貫いていることにある。これまで政府は、在外被爆者においては、渡日し、日本に居る間は、援護法を適用するが、いったん日本から出国すれば、「援護法は適用できない」としていたのである。この考え方は、従来の原爆二法の時代と全く変わらないものである。そのことによって多くの在外被爆者が、無念の涙を呑み、具体的な援護施策を受けられないまま亡くなっていったのである。
 
 この国の方針を大きく転換させたのが、2002年12月大阪高裁で判決が出された「郭貴勳裁判」での原告勝訴の判決である。この裁判は、「来日して健康管理手当てを受給していた原告が、出国した途端に健康管理手当てを打ち切られた(被爆者手帳は失効)ことは違法」として争われていたもので、原告側の主張が全面的に認められたのである。これを受け政府は、「各種手当てについては、出国後も継続して支払う」ことに方針を変更した。しかし、これは根本的な問題解決とはいえなかった。なぜなら「上告断念」の理由として政府が強調したことは、「これまでの政策の誤りを反省する」のではなく、「あくまでも人道的立場にたって」と強弁したからである。
 
 当時私も国会の中で、「在外被爆者に援護法適用を実現させる議員懇談会」を立ち上げ、その事務局長を務め、当事者のひとりとして、上告を断念させるための取り組みや「海外からの手当て申請への道」を拓くため、全力で取り組んできたけれど、多くの課題を残す結果となったことは、非常に残念であった。ただ当時の思いからすれば、「一気に解決するのが困難だとすれば、1つ1つ具体的な成果をあげることが重要だ」と考えてきたが、このことによってさらに大きな課題を在外被爆者に押し付ける結果となってしまったのも事実である。
 
 それは「日本にくれば手当てを支給する。だから手当ての申請には、必ず一旦日本に来てください」というのである。一見前進したかに見えた在外被爆者問題もさらに新たな課題を生じさせることになったのである。その結果、前述した広島地裁での裁判のように今度は、「海外からの申請」をめぐって再び裁判で争うことになってしまったのである。
 
 今在外被爆者は、政府の発表で、被爆者手帳の交付を受けている被爆者が、韓国約2300人、アメリカ合衆国約870人、ブラジル約140人、その他30カ国約220人となっている。これは手帳の交付を受けている被爆者の数である。被爆者手帳の交付を受けるには、日本に来ることが大前提になっているので、地域的な問題、健康上の問題などで、被爆者でありながら手帳を持っていないため、被爆者として把握されていない人もまだたくさん居ると考えなければならない。特に、朝鮮民主主義人民共和国(「北朝鮮」)には、約1000名の被爆者がいるといわれているが、その実態は、正確に把握されていない。
 
被爆者は、どこにいても被爆者 「被爆者はどこにいても被爆者」という言葉が、よく使われる。しかし本当にその言葉どおりの実態になっているのかと問われれば、残念ながら「ノー」の答しかない。被爆者が高齢化したいま、真の意味ですべての被爆者に援護法が適用されることが求められている。
 
 私が、これまで国会でしつこく質してきたことが、今度の広島地裁では、明確に取り上げられており、その点では私の主張は間違いでなかったと思っている。
 
 このことは、重要なことだと考えるので、少し述べておきたい。
 国は、「日本に申請にこなければ、各種手当ての申請を受け付けることが出来ない」根拠として施行規則(閣議決定)や施行令(大臣告示)に「居住する都道府県に届ける」と記載している点をあげている。ところが、そのもとになっている援護法の条文では、単に「都道府県」と明示されているだけで、「居住する」とは限定されていないのである。本来法律を施行するための手続きを定めたに過ぎない施行規則や施行令のほうが、法律を上回る権限などないはずである。ところが、現実の政治では時としてこんな転倒したことが、平気でまかりとおるのである。
 
 もし法を執行する側に、援護法の前文が言う「幾多の尊い生命を一瞬にして奪ったのみならず、たとえ一命をとりとめた被爆者にも、生涯いやすことのできない傷跡と後遺症を残し、不安な生活をもたらした」ことに対する思いがあれば、こんな差別は起きなかったはずである。
 
 私は、援護法が「前文」を持っていることの意味を今一度考えてみることが重要だと思うし、この在外被爆者問題の全面解決無くして、「差別のない生きた援護法」ということにはならないと思う。

真の意味の「国家補償」とは さてもう1つ重要なことが、「国家補償」という問題である。
 先に述べた広島地裁の判決でも「援護法には、社会保障的の趣旨と国家補償の趣旨がある」ことを、原告団勝訴の理由にあげている。確かに、援護法は、国家補償の趣旨を持っていることは間違いない。しかし、真の意味で国家補償法かといえば、否である。私は、「国家補償の援護法を」とこだわり続けてきただけに、この問題を改めて提起したい。
 
 何と言っても原爆の最大の犠牲者は、一瞬のうちに命を奪われた人、そして十分な看護も受けられないままなくなっていった死没者である。この死没者に対し、国がどう弔意を表すかということが、援護法制定運動の、そして制定時の最大の課題であった。だから当時の広島県被団協理事長であった伊藤サカエさんは、「無念のうちに死んだ人々に線香の1本でも上げてくれ」と訴えたのである。国家補償の原点とも言うべき問題である。
 
 援護法制定以前にも、1969年4月以降の死没者に対しては、先の原爆特別措置法によって葬祭料が支払われてきた。ところが、それ以前の死没者には、全く葬祭料が支払われていないのである。援護法では、こうした死没者を対象に、「特別葬祭給付金」を支給することとなった。ところが、この「特別葬祭給付金」には、大きなまやかしがあった。その特別葬祭給付金を定めた援護法第33条の書き出しは、「被爆者であった」と始まっているのである。もちろん死没者がいるということが大前提であるが、家族にいくらたくさんの原爆犠牲者がいたとしても、遺族が被爆者でなければ、この特別葬祭給付金を受け取ることは出来ないのである。
 
 例えば、学童疎開で家を離れていた、兵士として海外に派兵されており被爆を免れた者は、その家族がたとえ全員原爆によって殺されたとしても、自分が被爆者でないため、この特別葬祭給付金を受け取ることは出来ないのである。葬祭給付金といいつつも、実際には死没者に対してというよりも、あくまでも生き残った被爆者対策に過ぎないと考えざるをえない。
 
 つまりは戦争の、そして原爆の最大の犠牲者である死者に対しては、今なお葬祭料どころか弔意すら示されていないのである。
 あえてこの時期私がこうしたことを書き連ねたのは、政府の行為によって行われた戦争による被害の責任とは一体誰がとるべきか、そして今なお続く韓国や中国の戦争犠牲者や被害者が求める「賠償問題」にどう向きあうのかg問われているからである。
 
 私は、援護法における死没者への弔意の問題は、まさに国の政治のありようと戦争に対する考え方を問う問題だと考えている。ここに真正面から向き合い、小手先でない解決をしない限り、戦争問題の解決はないということである。今、日中間、日韓間に歴史問題が、大きな政治課題として現れているが、こうした責任を曖昧にした形で、決着をつける政治の姿勢が、その最大の原因だと私は考えている。
 
 この「国家補償」という問題を曖昧にしたままでは、原爆の犠牲者は浮かばれないし、再び過ちを繰り返すことになると思っている。

 ■ 後退する平和教育

 さて被爆60年。被爆体験の継承ということが叫ばれる中で、広島では憂慮すべき事態が進んでいる。それは広島における平和教育の現状である。昨年11月に発表された広島平和教育研究所が発表した「平和教育実態調査」が明らかにした特徴的な問題を提起してみたい。
 
 第1の特徴は、「平和教育に関する年間カリキュラムを作成している学校が激減している」ということである。97年の調査では、95%の学校がカリキュラムを作成していたが、今回の調査では23・7%に激減している。その理由として様々なことが指摘されているが、「管理職の学校経営方針で平和教育が実施できない」「教育内容から平和教育が除外されている」など、あっと驚く内容となっている。広島県では、98年から文部省是正指導あ行われてきたが、その結果それを楯にした広島県教育委員会の教育政策により、平和教育が大きく後退してしまったのである。例えば97年調査では、85・3%の学校が、平和教育担当者を置き組織的に取り組んでいたのに、今回の調査では21・7%へと激減している。これも文部省の是正指導による「組織の見直し」によるものである。結局、平和教育を推進する組織や担当がなくなり、個人任せ、教職員の意識しだいとなっているということである。教職員の戦争・原爆に対する認識は低下し、平和教育が推進される体制にはないという状況を作り出してしまっている。
 
折鶴を折るのは運動だからダメ このように組織的な「ヒロシマの平和教育」が実施できなくなってどんなことが起きているかをあげてみたい。広島県東部のある小学校では、例年行っていた全校児童で千羽鶴を折り、「原爆の子の像」(広島・平和公園内)に捧げる取り組みが、管理職によってストップがかけられた。その理由は「教育は中立でなくてはならない。子どもを運動(平和運動)に巻き込むことになる」というのである。これと同じ事例を私も別の学校のこととしても聞いている。折鶴を折ることが運動だというのである。ただ唖然とするばかりである。またこんな事例もある。ある学校が、被爆者の証言を聞こうとしたところ、管理職から「その被爆者はどんな経歴の人ですか」といったというのである。証言する被爆者が団体などに所属していれば、その証言は、運動と繋がるからその被爆者の証言を聞いてはいけないということだそうだ。 
 
 こんな事例をあげれば、「エー本当」という声が返ってきそうであるが、事実このようなことが、広島の学校現場では起きているのである。
 最近広島の原爆資料館を訪れる人が減っているといわれ、広島市は「資料館入館料の無料化」(市議会の反対で実現しなかった)や全国の学校に対し「修学旅行でぜひ広島へ」など、入館者増に向けて取り組みが試みられている。ところが、肝心の広島県の教育現場は、先の実態である。資料館入館者減は、様々な要因があるが、このような県内の平和教育の減退がその大きな要因の1つとなっていることは明らかである。
 
 広島県東部のある小学校では、保護者から「ぜひ遠足では平和公園に連れて行って欲しい」と強い要望があったそうだが、校長はそれを受け入れなかったという。ところが、平和公園に訪れることは絶対認めない学校が、一方で広島市の隣町府中町にあるマツダの工場見学を行っているというのだから、もう言いようがない。何故、こんなことが起きてしまうのだろうか。
 
 余りにも広島県の平和教育が悲惨な状況にあると書いたが、その中で広島市のがんばりもあることに触れておきたい。今回の報告にある「地域にある戦争の跡(遺跡)・証言の教材化」の項を見ると、このような取り組みをしているのは、全県では26・6%である。これを地域別にみてみると広島市内は50・9%、広島市以外は21・5%と大きな格差が出ている。広島市は、被爆者からの聞き取りへの補助金、指導書の作成・配布など、被爆体験の継承に力を入れているからである。明らかに行政の側の姿勢によって、大きな格差が出てくることを示している。こうしてみると県の姿勢に大きな問題はあるが、市・町など自治体の役割りも重要なことが見えてくる。広島県でも市町村合併が急速に進んで、これまでの非核自治体宣言がどうなっているか、見直しをしなければならないが、もう1度非核自治体宣言の意味や役割を問い直すことで、平和教育を取り戻せるのではないかということも示唆されているように思える。
 
 以上述べたことは、広島県平和教育研究所が行った広島県の平和教育実態調査のまとめから一部を引用したものであるが、改めて今日の教育現場が、とりわけ平和教育の実態のお粗末さを考えざるをえない。広島県の実態がこのような状況であることを考えると、全国的にはもっと後退しているのではないか。全国的なしっかりとした検証をしなければ、いつのまにか教育現場から平和教育の実態がなくなっていくことになるのではないだろうか。
 
 ■ 広島と憲法

 衆・参憲法調査会が、最終報告を出し、憲法の「前文」や「第九条」を改悪しようとする動きが強まっている。改めて憲法と広島との関りについて考えてみたい。
 今年3月、原爆詩人と言われ「生ましめんかな」や「ヒロシマというとき」など多くの詩をつうじ、原爆を告発し、反戦・平和を訴え続けてこられた栗原貞子さんが、92歳で死去された。享年92歳は、私の最も尊敬する森瀧市郎先生と同じ歳である。近年やや体調を崩されていたが、暑い夏の日、そして厳しい寒さの中で、座り込み行動などを一緒に行ったことを今思い出している。
 
 栗原さんの棺には、大きく白抜きで「護憲」の文字が刻まれた小豆色の旗が掛けられていた。栗原さんにとって「護憲」とは、反戦の砦として聳え立つ憲法第九条を擁護することであった。栗原さんはある講演会で、広島と憲法とのかかわりについて次のように述べている。「平和憲法を守ることは、決して一国平和主義ではありません。平和憲法に誇りを持ち、憲法を世界化することが大切です。1945年8月6日以降、戦争に関する考え方が一変しました。原爆のような皆殺しの兵器が出来た以上、戦争をすれば人類は絶滅することが明らかになりました。ヒロシマ、ナガサキを体験したことにより、日本は戦争放棄の憲法を持つことが出来ました。戦争放棄の憲法は、1945年8月6日以降の新しい思想です」と。だから栗原さんにとっては、「平和憲法を守る」ことは、譲ることの出来ないことであった。だから、社会党が基本政策を転換し「自衛隊合憲論」へと転換したことは、許すことの出来ないことであったのは当然のことである。私も当時、栗原さんから厳しい言葉で叱責されたものである。さらに栗原さんのことで触れなければならないことは、日本の加害責任について、鋭く目を向けていたということである。「ヒロシマというとき」の詩はそのことを示している。栗原さんは、「『原爆と戦争』を考えるとき、原爆の悲惨な被害性と広島の軍都としての加害性と世界最初の原爆投下の被害性をしっかり把握しなければならない」と指摘している。憲法改悪の動きが強まり、「いつかきた戦争への道」を歩み始めようとするとき、栗原貞子さんの指摘を今一度思い起こしたい。
 
 私自身も、いつもヒロシマと憲法を結び付けて考えてきた。だから2000年6月、衆議院選挙に初当選して国会での最初の発言が、その年の8・6直前の8月3日に開催された憲法調査会であったことに感謝している。その時は、わずか5分間の持ち時間であったが、「広島の死没者数は今だきちんと調査されたことがない」ことを述べながら、「広島や長崎、沖縄そしてアジアの人々の犠牲の中から憲法が生まれた」ことを強く訴えた。その後憲法調査会の委員となってからは、広島と憲法の関りを何度も繰り返し述べる機会をもつことになった。私にとっての憲法を考えるとき、原爆で一瞬のうちに命を奪われた人々のことを忘れることは出来ない。だから憲法を守ることは当たり前のことであり、ヒロシマには、その役割りがあると考えている。
 
 ■ おわりに
 
 今年の原水禁大会は、NPT再検討会議に向けての1000万名署名などの活動と連携し、連合、原水禁、核禁会議の主催で開会総会が開催される。節目の年だけに共通の課題で力をあわせることは重要である。そうした中で、これまでの原水禁としての運動をどう継承し、さらに発展させるか、本当に問われる大会でもある。今年も広島に全国から多くの仲間が結集し、各地域での運動がしっかりと交流できるような大会となることを期待している。

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