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●特集/戦後60年―転換期の日本の安全保障政策 (2005年5月号)
■ いま振りかえる・50年代の社会党・3つの視点
   (元社民党副党首 伊藤 茂)

 
●いま振りかえる3つの思い

 過去を総括し、今を見つめ、将来を展望する。時代の節目にはそれが大切だと言われる。日本が右に曲がろうとしているいま、そして「これから」を考えるとき、その思いを深くする。
 
 半世紀前、50年代の社会党は力強く活動し輝いた時代であった。私はその時代の初期に、恩師である大内先生から国会議員だった稲村順三さんに紹介をいただいて社会党本部書記局にはいり、主として平和運動の分野で働いた。その時代のことを、いまでもわが懐かしき青春の誇りと思う。その当時は、社会党が選挙で議席を減らすなど夢にも思わない、活気があり希望に燃えた時代だった。
 
 しかし、いま50年代の社会党を振りかえる視点は「よき時代」へのセンチメンタル・ジャーニーだけであってはならないと思う。「いま」の目で、「これから」のために、あの時代を検証することが必要であろう。60年安保闘争のあと、社会党は次第に長期停滞の時代になり、80年代にその打開を求めて日本の社会民主主義を追求することとなった。そして93年の非自民の細川内閣が誕生したが1年足らずで終わり、94年には自民党と社会党が連立した政府になって自民党は政権党に復帰し、96年には社会党は分解し、社民党に党名を変更した。その軌跡の主要な責任は60年代以降にあるが、50年代にも要因をはらんでいたのだろうか。
 
 60年安保闘争以後がその後の政治の流れの分水嶺となっただけに、また90年代の連立政治の動乱のとき、その渦中にあった1人であっただけに、深い想いを込めて社会党が「革新のかなめ」であったときとその後を振りかえるのである。それは私と同じ時代の人生を歩んだ仲間たちに共通する気持ちではないだろうか。
 
 しかし私は未来に悲観論はとらない。社会民主主義の思想は21世紀において大切な路線であるという思いを深くする。とくに日本の政治が右傾化しているいま、それは大きな使命をもっているし、いま新しい時代への糸口はさまざまのかたちで広がっている、それが2つ目の思いである。
 
 また3つ目には、そういう役割を果たすためには、新しい時代の課題に正面から取り組み、進路を切りひらく努力をしなければ未来はないと思う。亡き長洲一二さんに「革新とは?」と問うたら「先見性!」と答えた。そういう日夜の努力が未来を拓くのではないだろうか。そういう思いで、50年代の社会党の姿を次の三つの柱に集約して考えて見たい。

 (一)講和と安保の論争
 50年代の日本、それは朝鮮戦争の勃発(50年6月)、サンフランシスコ講和条約、日米安保条約の締結(51年9月)にはじまり、60年の安保条約の双務的内容への改定をめぐる激しい論争と反対運動(安保国民会議結成は59年3月)に至る期間であり、今日に至る日米軍事同盟の形成のときであった。そして軍事基地拡大、再軍備と日米安保の強化拡大を推進した保守政権に正面から対抗して、社会党は激しい論争を展開し、平和運動も大きく広がり高まった。冷戦の本格化の中での軍拡と阻止の対決、そういう10年であった。
 
 50年代はじめの時期に、全面講和を求める運動が幅広い人々によって展開された。また軍事基地反対のたたかいが各地で展開され、原水爆禁止運動が展開された。そして社会党は常にその中にあり、先頭に立った。砂川の基地反対闘争で「心に杭は打たれない!」という叫びがあり、55年に第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催されたときには「生きていてよかった」という被爆者の感動的な言葉があった。護憲連合、原水協、全国基地連、沖縄連などの組織が50年代の前半に相次いで結成された。そういう努力のなかで、共に語り、励まし合い、共に燃えていたあの時の仲間の顔を私は忘れることはない。そういう運動の山脈を忘却の彼方にしてはならないと思う。
 
 この時代の平和運動のベースに日本国憲法があったことは言うまでもない。46年11月に憲法が公布された。「敗北を抱きしめて」というジョンダワー氏の著書には「GHQの秘密憲法調査会」でわずか一週間の原案作成の作業が行われたこと、それを通告された旧体制維持を考える日本の保守政府が衝撃を受けたこと、しかし国民の圧倒的多数は心からこれを歓迎し国民の合意になったこと、朝鮮戦争のあとに、GHQで憲法策定作業した人たちが「後悔」したことなどが生々しく語られている。
 
 憲法公布のわずか3年後に「逆コース」が始まり、マッカーサー指令による日本の再軍備・50年の警察予備隊から保安隊を経て54年には自衛隊がつくられた。それらに対抗しながら中国、ソ連、北朝鮮との国交回復・正常化を求める友好運動が展開され、それぞれ重要な役割を果たした。
 
 外交政策における社会党の主張は「非同盟・積極中立」であった。50年代初期の講和三原則から平和四原則(全面講和・中立堅持・軍事基地反対・再軍備反対)の方針を大会で決定した。それをめぐって党の左右両派の激論があったが、アジア、アフリカをはじめとする世界での民族独立・非同盟の高揚があり、55年に第1回バンドン会議が開催されるなどの戦後世界の新しい動向と、国内での進歩的学者文化人などによる「平和問題談話会」など幅広い動きと連携していたのである。そういう立場で、社会党の外交活動が活発に展開された。
 
 50年代における冷戦の世界、日本の進路をめぐるたたかいをふり返ると2つの問題を思う。その1つは、戦後史に残る大きな運動を展開した成果と教訓である。60年5月以降の、「日本列島燃ゆ」と言われ、東京の大通りを大きく手をつないだフランスデモで埋める状況は、50年代を通じたさまざまの平和運動、58年の警職法改悪反対国民会議を中心にした運動を含めた積み重ねであったことである。総資本・総労働の対決と言われた三池闘争との結合、全国のすべての市町村に結成された共闘組織、運動の不安定な時期を乗り越えるためのすべての自治体を結ぶ行進など懸命の努力の総結集だったのである。そして岸内閣が警官隊を国会の中に導入して強行採決した五・一九以降の、岸内閣打倒、民主主義擁護、安保反対の国民的な大行動となったのである。
 
 いま、世界の構造も国民の意識もあの時とは違う。50年代には運動の核に社会党があり労働者のセンターとしての総評があったが、いまはそういう全国ネットの強力なリーディング・パワーはない。しかし憲法改悪や日米安保体制の危険性の高まりなどあのとき以上の重さをもったいま、未来への糸口は新しい、さまざまの形で動いて来ている。運動のたゆまぬ積み上げの努力を忘れてはならないと思う。
 
 2つ目に思うことは平和の構想力を鮮烈に切り開くことである。50年代をふり返ると、保守党政府の逆コースに強く反対すると同時に、平和への進路を積極的に提案し外交活動も展開した。それは政権を争う野党として大切なことである。その面で1つの反省があった。
 
 50年代から60年まで運動の中核的な役割を果たした人々が、その後に深刻な総括の意見交換をした。それは運動の大きな高揚があったが、政権構想を含め「次への展望」を提起する努力が足りなかったという点であった。私は、親しく日夜行動を共にした先輩たちが書き残したものを読み返し、「これから」を思う。政府の対米追随だけの路線では、21世紀の世界とアジアと共に生きる道は八方ふさがりになっている。冷戦構造が崩壊して一五年を経たいまの世界をすすむ日本の海図、革新のサイドからの平和構想、言うならすぐれた具体性をもった「PMO・ピースメーキングオペレーション」を鮮烈に提起し、それを国民のものとする勉強と行動が特段に大切になっている。東アジア共同体の具体的構想などで、市民レベルでそういうアジア諸国民との合意を形成することも、そういう努力の1つであろう。

 (二)分裂と統一・左派優位へ
 50年代社会党の大きな出来事は51年の分裂、そして55年の統一であった。47年5月に総選挙で社会党が比較第一党になって片山内閣が誕生し、翌年2月に党内論争が大きな原因になって総辞職した。そして49年総選挙で惨敗し、議席は143から48に減り、再建大会が行われたが党内対立は激化、そういう経過のうえに50年代の日本社会党があった。
 
 51年10月23日の第8回大会での分裂は「怒声、乱闘と休憩の大会であり、20時間の大会のうち、議事録は43分だけしかない」と記録されている。右派は講和条約賛成・安保条約反対、左派は両条約反対の非妥協的な主張の対立である。荒々しい時代だった。左派社会党時代でも党大会で代議員が演壇に駆け上って議長を取り囲もうとするなどはいつものことであり、私たち書記局員はその防衛が仕事の1つだった。
 
 その後の選挙で左派が躍進し、右派は低落の流れになった。左派社会党は分裂時の衆議院16議席から52年選挙で56、53年には72、そして統一直前の総選挙では89議席(右派は67議席)と躍進した。
 
 55年10月13日、統一大会が開催された。統一への動きの背景には左派社会党での鈴木派、和田派の主導権争いがあり、右派社会党では日労・社民の両派の対立が絡んでいたと言われる。しかし時の流れは、社会民主勢力の統一によって政権交代の現実性を高める気運が生まれ、春には鈴木・河上両委員長の共同声明などがあり、また54年9月に訪日した英国労働党代表団のフィリップス書記長とベバン氏が統一への熱い期待を込めた忠告の談話があり、それに応える両社の共同声明などもあった。
 
 左右両派それぞれ事前に大会を開催して同文の「社会党統一実現に関する決議」を採択していた。しかし神田の共立講堂での統一大会は12時間遅れの深夜の開会となり、統一綱領を採択し、鈴木委員長・浅沼書記長を選んだ。左派の代議員のなかで統一綱領、運動方針や右派優位となった執行部人事案などでの不満が大きかったようである。統一大会は翌14日午前2時に終了した。左派社会党の解散大会で、党の功労者として大会表彰を受けた稲村順三さんが謝辞挨拶で「諸君、綱領は党の魂だ、綱領を守れ!」と叫んだことを思い起こす。左派綱領の起草にあたった1人としての思いであろう。
 
 翌年の13回党大会での運動方針の左派による大修正があった。58年5月の総選挙では社会党が168議席を獲得した。それは社会党史上最高の議席であり、その後もそれを越えたことはない。片山内閣のときには社会党の実力者であった西尾末広氏に対して、50年代末には除名動議が出されるように変わったのである。
 
 50年代に分裂と統一の歴史を刻んだ社会党が40年代と大きく違って左派優位になった要因は「社会党・総評ブロック」と言われた労働組合・総評の左派支持であった。50年7月に発足した総評は敗戦後初期の産別会議中心(共産党主導)から民同左派が主導権を取って誕生し反共の立場であったことから米国からの期待もあったようだが、彼らから「鶏がアヒル」になったと嘆かれ、労働者のセンターとして「昔陸軍・いま総評」と言われた。昔日の思いがする言葉である。社会党系の運動はその総評の動員が軸だった。そういうことで、ひろがる大衆運動の主導権は左派にあった。日本共産党は50年1月のコミンフォルム批判による極左冒険主義の方針となって党内抗争となり55年の六全協での方針転換まで広い影響力を持つことはなかった。
 
 50年代は社会党が日本における有力な政党として活躍した。しかし60年代以降の変遷でその力は小さくなってしまった。ジョン・ダワー氏は「社会民主勢力がヨーロッパのように政権担当能力を持って成長しなかったのは日本にとっての戦後史的不幸である」と語っている。それを読みながら、それは60年代以降の責任なのだろうか、と考え込む。
 
 あの時代の左派にとって「社民」とはやや軽蔑をこめた言葉だった。51年の社会主義インター結成には鈴木委員長、和田外交委員長が参加していたのだが、党大会でしばしば脱退とか会費凍結の動議が出された。社会主義インターを重んじるのは主として右派、左派はソ連(当時)、中国などとの友好という流れがあった。53年にはアジア社会党会議が結成されたが、大きな会合が日本で開催されたのは77年の東京首脳会議がはじめてであった。50年代をふり返るとき、同時代のヨーロッパ社民との対比、その後のウラルの彼方の友人と此方との歴史と現実とを考える。
 
 (三)55年体制のスタート
 いわゆる「55年体制」と言われる日本の政治構造がこの時期に生まれた。55年10月の社会党統一、翌月15日の民主党と自由党の保守合同で自民党が生まれ、93年の非自民の政府・細川内閣が誕生するまでの38年の長きにわたる「二大政党」の歴史が始まった。その55年体制が生まれてから今年は50年目になる。
 
 55年体制、それは自民党政府と野党第一党の「対決の歴史」であった。
 
 社会党は野党第一党、革新の要として政府与党に正面から対抗した大きな役割を担って活動した。鳩山内閣は党是である九条を中心とする憲法改悪を実現するために小選挙区制の実現をはかり、56年の参議院選挙は改憲・護憲が最大の争点となったが護憲派が3分の1を確保して改憲の企図は失敗した。衆参両院で社会党などが国会議席の3分の1を確保したことで保守による憲法改悪の企てを不可能にしたのである。それによって自民党政府は目標は掲げつつも事実上「条文改憲」を断念し「解釈での改悪」で対応することになった。しかしいま、日米安保の運用もケジメなき変質を積み重ねて憲法と現実の矛盾は極限状態になり、公然の憲法改悪の作業が進行している。
 
 この二大政党対決の政治のなかで社会党は勤労者の生活、日本の平和と民主主義を守るさまざまの活動を展開し成果をあげた。55年代半ばから日本経済は成長基調となって、56年の政府経済白書は「もはや戦後ではない」と宣言した。労働者の生活向上をめざす春闘がこの時期にスタートしたが、最低賃金制や労働時間短縮、社会保障制度の強化など、社会党は勤労者の生活向上のためにさまざまの国会活動を展開した。
 
 57年に成立した岸内閣は軍事基地の拡張を推進し、警察官職務執行法の改悪を企て、日米安保条約の双務化をめざして改定交渉を開始した。これに対して59年3月には安保改定阻止国民会議が結成され、それをセンターにして全国統一行動を積み上げることになった。59年から60年7月までの国民運動は50年代に広がった平和運動の頂点をなすものであり、戦後史に刻まれる国民的なたたかいとなった。
 
 しかし60年夏以降、運動の沈静化と退陣に追い込まれた岸首相のあと池田内閣が成立し「寛容と忍耐」「高度成長と所得倍増」の政策を掲げて自民党長期政権の道をすすめることとなった。日本経済は50年代半ばから高度成長の過程にはいっていたが、その中で自民党は「政・官・財」のトライアングルをつくり、官僚を駆使して長期政権の基盤をつくった。
 
 50年代半ばで始まった55年体制は、統一社会党の目標に反して「政権交代なき政党政治」の38年となった。余りにも長い年月である。55年体制の終わった93年、自民党が野党になり、非自民の政府が実現したときには、社会党は総選挙で惨敗して議席を半減させるという状態だった。皮肉なことに社会党の教科書とは逆の事態のなかで政権交代になったのである。
 
 「万年与野党」の構造になった原因、「抵抗政党」という国民の認識になったこと、58年総選挙での獲得議席をピークとした長期停滞、そして70年代後半からの日本における社会民主主義の追求、そして90年代の低落の総括などにかかわることはこの小論の範囲ではないが、「いま」の事態が重大であるだけに、また21世紀日本の展望が重要であるだけに、50年代にスタートした55年体制のなかでの社会党の軌跡を含め、あの時代の総括と「これから」について幅広い人々による議論が求められると思う。いま進行している「社民宣言2005」策定の討議のなかでもそういう議論があってもいいのではないだろうか。

●「これまで」と「これから」
 
 
50年代の日本、それは波乱の10年だった。朝鮮戦争が勃発して熱い冷戦となり、講和条約と日米安保条約、地位協定の調印、そして軍備増強路線、そしてこの年代が終わる時期には日米安保条約の改定をめぐる歴史的な論争がはじまった。経済では戦後復興の困難の時期から朝鮮特需と言われた時期を経て本格的な資本主義経済の展開が進行し、農地改革などさまざまの民主改革が行われた。
 
 社会党にとっても51年の分裂、55年の統一をはじめとして、綱領論争などに示されるような波乱の10年だった。同時に五五年体制のスタートに見られるように、その後半世紀近い日本の政治構造の原型が生まれた時期でもあった。
 
 歴史を見る目というか、過去と未来を考えるのは難しいことである。それは「朝鮮戦争の真実」が中・ロの文書公開などによって半世紀を経てようやく明らかになったようなものである。50年代から半世紀を経たいま「あの時代」の出来事、あの時代の先輩たちの人生を賭けた活躍を真摯にふり返ることは大切なことだと思う。
 
 同時に「これまで」をふり返りながら「これから」の新しい時代を拓き担うことがより大切であることは言うまでもない。昨年政権党になったスペインで、かつて「スペインの赤いバラ」と言われた社会労働党の若き首相ゴンサレス氏に会って平和について議論したときに、彼から「変わらざる平和主義の精神・国際情勢と共に日に日に新たに発展する平和戦略」と言われたことを思い起こす。
 
 社会党が燃えていた時代の50年代、そしてその後になぜ万年野党になったのか、なぜ小さな党になったのか、考えるべきことは多い。しかし過去を振り返ることはすべて未来のためである。評論ではない主体的な総括が必要であろう。われわれの社会改革の運動は過去から未来へとつながる大きな山脈だと思う。そこには高い山もあり場合によっては深い谷もある。過去を学び検証しながら新しい世紀の大きな山脈を発展させたいものである。

※本稿は05年2月20日、NPO労働者運動資料室主催の学習会で講演されたものを元に執筆していただいたものです。

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