●2023年6月号
■ 人手不足時代に備えよ
伊藤 修
■ はじめに
本論の骨子は次のとおりである。
- 物価は年3%上昇(生活物価はそれ以上)の水準にあり、しばらく急落はないであろう。一方、23春闘は、賃上げ=ベースアップが2%台前半、定昇込みで3%台後半の上昇とみられ、物価に及ばない。しかし長い停滞から転換したことはきわめて重要である。
- 賃金と物価の上昇の背景に、世界および日本における人手不足の深刻化がある。これは一時的でなく、局面の転換である可能性がある。
- 他面で、足かせとして、財政と金融が結びついた危機が迫っている。これは安倍流経済政策の誤りが残した重い負の遺産である。これが大崩れ、パニックに至らないよう、巧妙に、慎重に、正常化へ向かわなくてはならない。
- 以上から、今後に向け、特に次のことを考えるべきである。第一に、今後も賃上げを継続させ、しかも物価上昇を上回るようにしなければならない。第二に、若年層などの人手不足の状況、1960〜70年代のような売手有利の市場になる可能性があり、それをとらえて、数十年ぶりの攻勢に出る備えを開始すべきである。
■1. 物価も賃金も上昇
・物価の上昇つづく
2022年度の物価統計の発表(総務省および日銀による)が出そろった。
まず、この1年、輸入物価は1年前に対して30〜40%の上昇をつづけてきたが、最新の3月は約10%と、少しペースダウンしている。
輸入原材料が影響する企業物価(企業間の取引:かつての卸売物価)は、年度で9.3%上昇だった。
それがさらに波及する消費者物価は、全品目で3.2%上昇した。年3%インフレの水準にあるといえる。
消費者物価の内訳をみると、食料が7.8%、電気・ガス・水道8.3%、家事用消耗品12.2%の大幅上昇で、日々の買い物を直撃している。必需的な消費支出の割合が高い低所得層ほど、負担増がきついことになる。
2020年からの物価上昇は、いくつかの原因による。
- 世界的に20年からコロナ対策で財政と金融から資金を散布したので、貨幣流通量が跳ね上がった。
- 同じくコロナ(都市封鎖などもおこなわれた)で国際的な物品のやりとりが途切れたり、出勤者が減って、生産・供給が減少した。
- ロシアのウクライナ侵略(22年〜)でガス、石油、穀物などが品不足になった。
- 日本の場合はさらに、大幅な円安によって輸入品の価格が暴騰したことが加わる。
この物価上昇は、需要=購買力の拡大が引っ張ったものではなく、原材料などのコストの上昇が押し上げた「コストプッシュ」インフレだといわれる。右の2.3.4.はそれに該当し、おおよそ正しいが、1.のようにそれだけではない。
そして当初は、コロナやウクライナ侵略など一時的な原因によるのですぐ終わるとの見通しが多かったが、その予測ははずれ、長引いている。
一般にインフレは、いったん走り出すと、物価上昇→コスト上昇、が相互循環して、簡単に止まらない。戦後インフレをみよ。
MMT派や自民党政権など経済刺激派の人たちは、物価が上がりだしたらすぐ止めればいいと簡単にいうが、これは経済の実際を知らない素人考えである。
・賃上げは30年ぶりの率
賃金は20年以上にわたって上がっていない。その間、過去2回・5%の消費税上げによる物価上昇分も十分上がっていないし、今回のインフレでも実質賃金は切り下がった。つまり宿題が積み残されている。そこへ足元3%の物価上昇である。
これらを考えると、実質賃金を維持する(=資本側と引き分ける)ためだけでも、5%のベースアップが最低線になる(定昇は賃上げではないからもちろん含まない)。びびってはいけない。今春闘にあたり筆者はこう論じた。
結果はどうなったか。現時点(第5次集計:5月10日)の連合とりまとめでは、回答組合の加重平均で、賃上げ(ベア)が2.1%、定昇込み3.7%となっている。
なおそのうち中小(300人未満)は、順に2.0%、3.4%とわずかに低い。
また非正規(有期・短時間・契約等)労働者の賃上げは、時給で5.4%、月給で4.0%である。
この結果をどうみるか。まず、前述の最低線5%からみると、足りていない。物価上昇は3%だから、2%賃上げは足元で1%ほど実質賃下げになる。
そうではあるけれども、1993春闘以来30年ぶりの幅の賃上げになったことは、この上なく重要である。これを転換点にして、来年以降もつづけなければならない。
厚生労働省の「現金給与総額」統計(これが全体の賃金動向をみるのにいちばん近い)は、春闘回答前の3月までほぼ横ばいだった。つまり上昇トレンドに乗っての春闘賃上げではなかったわけである。1回限りの危険もあり、喜んで安心してはいられない。右の現金給与総額データの今後の動きを注視しなければならない。
また同統計で、このところ中小と非正規の賃金が、大手の正規を上回って上がってきた。いうまでもなく中小と非正規の賃金水準は大手正規より相当に低いのだが。
大手正規の賃金は、春闘の結果、したがって交渉ぶりにも影響されるのに対して、中小と非正規では、市場での労働力需給の状態によって変動することが知られている。
そうであれば、大手の春闘交渉はもっと力を出す必要がある。一方、経済の実態においては人手不足、労働力の取り合いの圧力が高まっていることを示すだろう。
■2. 人手不足トレンドをめぐる論点
・人手不足の深刻化
これまでコスト削減、人件費削減に、問答無用の態度で狂奔してきた日本企業が、今春闘で賃上げに転じたのはなぜか。
岸田の要請が効いたとの説がある。しかし数段力があった安倍の要請は効かなかったから、説得力がない。
経団連の現執行部が異常なタワケなのか。しかしみんな賛成したのだからこれも説得力がない。
アメやムチで強制または誘導されたのか。それほどのものは思い浮かばない。
そうであれば、経営側にとっても賃上げが必要になったと考える以外にないだろう。それは、このまま賃金抑制を続けたらまずいということである。
まず物価がここまで上がっている。無視したらさすがに不満がどこまで高まるかわからないと思われただろう。
またマクロでは、これまでの賃金削減は日本経済を縮小の悪循環に陥らせ、衰退させてきた。利潤確保のための賃金削減は、同時に家計の収入、ひいては購買力・需要を減らして、経済を縮小させた。この事実が無視できないところまできた。
もう1つはミクロ、個々の企業の問題として、これまでのようでは人が寄りつかず人手不足・欠員、他国との人材競争にも惨敗、という事実を突きつけられている。
すでにここ数年、展望の暗い銀行はじめ金融業は就活で人が来ず苦しんでいる。コロナで人を減らした業種は回復しようにも人が来ない。
経済界の機関紙ともいえる日本経済新聞は、このところ特集を連載して、人手不足の実態例を報告し、何とかしようとキャンペーンを張っている。
高度専門労働者の賃金水準では、すでに日本はアメリカの3分の1、ドイツの半分、韓国や中国より低く、タイとほぼ同じである。熊本にくる台湾企業TSMCは大卒初任給28万円で日本企業は太刀打ちできない。アジアで後発であるベトナムからも人が来なくなる比較賃金水準になるまで時間の問題となった。それどころか労働力は日本を見限って海外に流出しはじめている。日経はこの事態を「雇い負け」と呼ぶ。
悲鳴があがり、もう賃金を上げなければという実態に追い込まれたとみられる。
・「人口大逆転」説
経済学界ではグッドハート&プラダン『人口大逆転』(日経BP)という本が注目されている。よくあるトンデモ本ではなく専門家の真剣な本で、原著はフィナンシャルタイムズの2020年ベスト経済書に選ばれた。
世界的インフレの前に、デフレからインフレへの転換を予測し的中して注目されたが、それよりも分析の内容が重要であって、次の如くである。
東西冷戦が終わってからのデフレ的な経済の背景には、中国などが世界経済とつながって、安くて大量の製品があふれ出したことがあった。
しかし中国さえも少子化に入った。2020年の合計特殊出生率は1.28で、日本の1.34よりも低く、東アジアは韓国0.87、台湾0.99といずれも世界の最低レベルにある。世界全体も2.30とひじょうに低い。
労働力不足、ひいては供給力不足、が年々はっきりして、安い大量の商品がデフレ基調をつくった時代から、インフレ基調の時代に転換しつつあると見込まれる。
人手不足状態は、低所得層を底上げすることをつうじて、格差を縮小する圧力にもなる。この点でも、新自由主義とあいまって格差が拡大した過去30年ほどとは、逆転するかもしれない。――と。
労働力過剰のもとで格差が拡大し、人手不足状態では格差縮小の力が働くことは、日本の歴史でも確認される。
たとえば高度成長期の1960年代から70年代前半まで、若年労働力が「金の卵」と呼ばれた人手不足になり、中小企業の賃金が上がり、現在の非正規にあたる臨時雇用は減って賃金が上がり、全体に下が底上げされることで格差が縮小した。そしてこの背景のもとで青年の活動が活発化もしたのであった。
現在こういうことは想像しにくいと思う。また、どうなるか、まだはっきりとはわからない。
少子化、人口減少は望ましくなく、喜んでいるわけでもまったくない。本誌でもくりかえし述べてきたように、少子化の明らかな原因は、格差拡大と貧困化によって、結婚できない、子どもをもてないことにあり、これを変えなくてはならない。
しかし人手不足化は現に進行している。経済の需給の作用の力から逃れるのはむずかしく、転換はひじょうにありうることだと考えられる。
ちなみに、労働力需給を示す有効求人倍率(求人/求職)は、1965〜74年に1.0〜1.7。バブル期に1.0〜1.4。そして現在が1.3〜1.4である。このデータを直視したい。
少なくとも、“労働者の代わりはいる”を前提にしてきた潮目が変わる、時代が転換する可能性はある、とした上で、それに備える必要があると思う。
■3. 財政と金融がセットになった危機
コスト削減一点張りの企業の行動、不合理なしくみや慣習がつづくことによって日本が衰退しつつある状況を変えなければならない。また右にみた大きな基調の転換に対応する。こうした課題がある一方で、足かせとなる危機的な問題も累積し膨らんでいる。
いちばん明確でさしせまった問題は、財政危機と金融危機がむすびつき、セットになったものである。
この問題については、この10年間、本誌でも何度も述べてきたので、詳細をくりかえす必要はないと思う。ここでは3月に出た本、元日銀スタッフである河村小百合氏の『日本銀行 我が国に迫る危機』(講談社現代新書)を紹介しておく。その内容はこの間の筆者の分析とほとんど一致し、基本データを載せている点がおすすめである。
あらためて問題の骨子をメモしておこう。
「アベノミクス」以降、政府債務は2012年1131兆円(GDPの2.2倍)から22年1455兆円(2.6倍)に膨張した。黒田「異次元緩和」はこの国債を買い入れ、代金として貨幣を供給しようとしたが、経済回復の効果は出ずに、日銀が抱える国債だけが同じ期間に100兆円から600兆円へ6倍増した。これが現状である。
国債の累積は世界最悪、また敗戦直後の状態に並んだ。信用が崩れる限界に近い。まだ現に大丈夫ではないかとの愚論もあるが、バブルの崩壊だって直前までは「大丈夫」なのである。信用がなくなれば値崩れする。
それとどちらが早いかわからないが、日銀が金利を上げても国債は値崩れする。そして値下り損失が出る。
国債の最大保有者である日銀は、内部の試算で、金利が1%上がると29兆円、2%で53兆円、5%で108兆円の損を抱えることになる。郵貯も損害が大きい。
また金利が上がれば、いまは無きに等しい国債の利払が急増し、予算を組むのもむずかしくなる。
植田日銀は、異次元緩和をつづけられないこと、正常化しなくてはいけないことは100%確実だが、右の崩壊、パニックを避けるため、巧妙に、だましだまし、慎重の上にも慎重に、進めなければならない。
一方、アメリカで大きな銀行破綻が3件おき、世界的大手クレディスイスも危機に陥って救済買収となった。世界は(例外である)日本より先にインフレ対策で金利を上げたので、当然にも債券が値崩れし、損失を生んだ。近年の金融緩和のもとで毎度おなじみ不動産関係融資にも手を出していた。中国の金融も不動産で危険を抱える。
日本の銀行等はどうか。いまのところ騒ぎはないが、なにしろゼロ金利なので稼ぎようがない状態が長くつづき、ボディブローのダメージは欧米以上にたまっている。欧米の国債など債券の下落で損を出しているところもある。外国債だけでなく日本国債も危険なので、個人などに押しつけ売りして逃げることに努める。またやはりビルや住宅など不動産関連に依存してきた点も要注意である。
安倍から岸田までの自民党政権がめちゃくちゃにしてしまった、財政・金融のからまった危機という負の遺産は、きわめて重い。
国民生活を地獄に落とす恐慌的事態の発現を(ひじょうにむずかしいが)何とかして避けながら、数十年といった長い視野で正常化を進め、さらに並行して日本社会の不合理を直していく課題に取り組まなければならない。
あわせて、安倍流の右翼一味はあせって暴言をくりかえすから、徹底的に吊るし上げて孤立させるべきである。
■ むすび
これまでの検討のうち強調すべき点をまとめておこう。
第一。今後も賃上げを継続させるとともに、物価上昇を上回ることが重要である。
第二。財政・金融の危機が大崩れ、パニックに至らないよう、慎重に、巧妙に、長い目で、正常化へ向かわなくてはならない。
最後に、これは特にくりかえして問題提起しておきたいが、若年層などの人手不足状態、1960〜70年代のような売手市場になる、追い風になる可能性がある。その情勢をとらえ、数十年ぶりの攻勢に出る備えを。
準備なしで出遅れないように、これまで犠牲が集中し、これから状況が転換する可能性がある、青年層、非正規労働者、中小部門労働者などに、今から意識的にむすびつき、働きかける用意をしておくことが欠かせないと考える。
|